フェリーチェ・ベアト
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10月6日には英仏連合軍の攻撃が始まり、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、イギリス軍の総司令であるエルギン伯爵ジェイムズ・ブルースの命令により、「捕虜が虐待されたことに対する復讐」としてイギリス軍第1師団が徹底的に破壊し、10月18日と19日に火がかけられた。ベアトが中国で撮影した最後の写真は、北京条約に署名するために北京に到着したエルギン伯と、咸豊帝の代理として署名した愛新覚羅奕?であった。

ベアトは1861年11月にイギリスに戻り、その冬の間にインドと中国で撮影した400枚の写真を、ロンドンの商業肖像写真家であるヘンリー・ヘリング(Henry Hering)に売却した。ヘリングは写真を複製し、販売した。価格は写真1枚が7シリング、インドで撮影された写真全部だと54ポンド8シリング、中国の写真全部で37ポンド8シリングであった。当時のイングランドとウェールズの一人当たり国民所得は年間32ポンドに過ぎず、写真集の価格はこれより高かったことになる。
日本戊辰戦争中の薩摩藩士

ベアトは1863年までには横浜に移住し、1861年からそこに住んでいたチャールズ・ワーグマンと共に「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を設立し、1864年から1867年まで共同経営した。ワーグマンはここでもベアトの写真を基に挿絵を描いている。一方、ベアトはワーグマンのスケッチや作品を撮影している。そもそも『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』の挿絵画家をしていたワーグマンが、1860年北京の戦い取材中に現地で知り合った従軍写真家のベアトを招き、1863年に来日したとも言われている[15]

ベアトが日本で撮影したのは、軍用写真のほか、肖像写真、風俗写真、名所、都市の風景などで、特に歌川広重葛飾北斎浮世絵を思わせる、東海道の風景が有名である。少し前までは鎖国していただけに、日本を写真に収めるのは極めて重要なことであった。ベアトの写真は、その質だけでなく江戸時代を撮影した希少性という点でも、注目に値するものである。下関戦争で連合国によって占拠された長府の前田砲台

ベアトは日本滞在中、非常に活動的であった。1864年には下関戦争の従軍写真家を務めている。翌年には、長崎およびその近郊の日付入りの写真を発表。1866年からはワーグマンの経営する『ジャパン・パンチ』でカリカチュアとしてしばしば登場する。1866年、豚屋火事で横浜居留地が全焼したため、ベアトは自分の写真館とネガを失ってしまった。その後2年間、代替作品を精力的に撮影した。その結果、2巻の写真集、100枚の肖像写真と風俗写真からなる「Native Types」と98枚の名所と都市風景からなる「Views of Japan」が完成した。[16] 写真の多くは、人手により着色されたが、これは日本の水彩と木版印刷の技法を、ヨーロッパの写真に応用したものだった。1869年から1877年にかけて、横浜で「F. Beato & Co., Photographers」を経営した。ワーグマンとの共同経営は解消し、H. Woolettというアシスタントと、4人の写真家および4人の日本人の着色画家を雇った。日下部金兵衛も独立前はベアトに雇用されていたと考えられている。ベアトは上野彦馬等と共に撮影を行った。またシュティルフリート男爵に写真を教えたのもベアトであるとされている。西郷従道とベアト(前方座っている人物)および友人たち(1882年、ウーグ・クラフト撮影とされる)日傘をさした女性入れ墨の男性の後ろ姿


1871年ジェネラル・シャーマン号事件の報復のため、アメリカ海軍は朝鮮に遠征し(辛未洋擾)、ベアトはそれに従軍した。そのとき撮影された写真は、確認されている限り最初の朝鮮の写真である。

日本に滞在中、ベアトは写真事業に専念したわけではなく、多くの事業を手がけた。いくつかの土地と写真館を有していた他、不動産コンサルタント、横浜グランドホテルへの出資、絨毯と女性用バッグの輸入、等などである。また、原告被告、さらに証人として法廷にも何度か立っている。1873年8月6日、ベアトは駐日ギリシャ総領事に任命されたが、おそらくはかってケルキラ島に住んでいたことがあるためと思われる。

1877年、ベアトはスタジオを閉め、写真とネガを含めたほとんどの資産をシュティルフリート男爵に売却した(男爵はシュティルフリート・アンド・アンデルセンの名で写真スタジオを始めた)[1]。売却後、ベアトは数年間写真の世界から離れ、投機と貿易業に専念した。1884年11月29日、ベアトは日本を離れ、エジプトのポートサイドに落ち着いた。日本の新聞によると、横浜でのの取引に失敗し、ほとんどの財産を失ったとされている。なお、シュティルフリート・アンド・アンデルセンの資産は1885年にアドルフォ・ファルサーリと日下部金兵衛に売却されたため、ベアトの写真資産はファルサーリらに引き継がれた[1]
Views of Japan

ベアトの代表作「Views of Japan」(正式名Photographic Views of Japan with Historical and Descriptive Notes, Compiled from Authentic Sources, and Personal Observation During a Residence of Several Years)は、1868年頃から撮影された[15]。風景を主としたものと、人物など日本の風俗文化を主としたものの2種類があり、25?50枚綴りの写真集を作って販売するほか、顧客(海外からの旅行客や日本在住の商人など)自らが来店して、コレクションの中から好きなものを選んでアルバムにするサービスも行なっていた[15]。写真にはそれぞれ150?500語程度のキャプションが付けられていたが、間違いや誤解も少なくない[17]。編集には、横浜の英字紙(ジャパン・ガゼット、ザ・ファー・イースト)の発行人であるジョン・レディ・ブラックが関わっていたと言われる。写真への着色は、同業者の競争が激しくなってきたことから、差別化のため、水彩画にも詳しいワーグマンの助言で始まり[15]、浮世絵制作によって高い技術を身につけていた日本の職人が作業にあたった[1]。スタジオ撮りのモデルは、同一人物が違うコスチュームで登場するなど、必ずしもその職業の者ではなかった[1] 愛宕山より撮影した江戸のパノラマ、5枚の写真をつなげたもの(1865年または1866年 上記の写真に着色したもの 
晩年マンダレーのシルバー・パゴダ(1889年頃)

1884年から1885年にかけて、チャールズ・ゴードンの後を受け、スーダンハルツームに遠征するウーズレー男爵(G.J. Wolseley)のカメラマンとなった。しかし、そこで撮影された写真は現存していない。

1886年にはしばらくイギリスに戻り、ロンドンの写真学校の教師を勤めたが、1888年には再びアジアへ旅立った。今回の行き先はビルマで、家具と骨董品の商売をマンダレーラングーンで営むとともに、1896年から写真館を経営している。彼の通信販売のカタログには彼が取り扱っている商品の写真と共に、少なくとも2冊の写真集が含まれている。1899年頃までは働いていたようではあるが、1907年1月に彼の会社は清算されたが、最晩年や没年については長い間詳しいことが分かっておらず、1905年か06年頃にラングーンもしくはマンダレーで死亡したものとされていた[18]。2009年に発見された死亡報告書では、1909年1月29日にフィレンツェで死亡したことになっているため、その後イタリアへ帰国したものと考えられている。
脚注^ a b c d ePortraits From the Dawn of a New EraVisualizing Cultures, MIT, 2009


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