フィンランド
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国名・象徴
国名

フィンランドは「フィン人の国」という意味で、スオミはフィン人の自称である。「スオミ」の語源については多くの説が提唱されており定説はないが、同じウラル系の「サーミ」や「サーミッド」(サモエード)と同源とする見方がある。「フィン」についてはタキトゥスゲルマニア』にある「北方に住む貧しいフェンニ人」が最古の現存する記述である。「スオミ」については古くはフィンランド南西端、バルト海沿岸にある都市トゥルクを中心とする限られた地域を指す単語であったのが、のちに国土全体を指す単語に変容し、そこに住んでいたスオミ族の名がフィンランド語の名称になった。トゥルク周辺は現在では「本来のスオミ(Varsinais-Suomi)」と呼ばれている。「スオミ」は、フィンランド語で「湖沼沼地」を表す単語「スオ」(suo)に由来すると言われる[7]

正式名称は、フィンランド語では Suomen tasavalta(スオメン・タサヴァルタ)、通称 Suomi [?suo?mi] ( 音声ファイル)(スオミ)。形容詞はSuomalainen(スオマライネン)。スウェーデン語では Republiken Finland(レプブリケン・フィンランド)、通称 Finland [?f??nland] ( 音声ファイル)(フィンランド)。形容詞はfinsk(フィンスク)( 各音声)。公用語はフィンランド語とスウェーデン語。

日本語の表記は フィンランド共和国、通称 フィンランド。漢字による当て字では芬蘭(古くは芬蘭土とも)と表記し、芬と略す。

英語表記は国名が「Finland」、国民が「Finn(s)」、形容詞は「Finnish」。
国の象徴詳細は「フィンランドの国の象徴(英語版)」を参照
歴史詳細は「フィンランドの歴史」を参照

通常は先史時代( - 1155年)、スウェーデン時代(1155年 - 1809年)、ロシアによる大公国(フィンランド大公国)時代(1809年 - 1917年)、独立後の現代(フィンランド王国時代を含む、1917年 - )の4つの区分に分かれる。

現在のフィンランドの土地には、旧石器時代から人が居住した。南には農業や航海を生業とするフィン人が居住し、のちにトナカイ放牧狩猟をするサーミ人が、北方に生活を営むようになった。400年代にノース人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住を開始し、居住域を拡大していった。

1155年にはスウェーデン王エリク9世北方十字軍の名のもとフィンランドを征服し、同時にキリスト教カトリック)を広めた。1323年までにはスウェーデンによる支配が完了し、正教会ノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領になった。16世紀の宗教改革でスウェーデンのグスタフ1世ルター派を受け入れたため、フィンランドもルター派が広まることになった。カトリックの承認を得ずに司教となったアグリコラ聖書翻訳を進めたことで、フィンランドは新教国としての性格を決定的にした。1662年のフィンランド

1581年にはフィンランドの独立が模索された結果、ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」(のちにフィンランド大公となった)"となり、スウェーデン王国が宗主国となる形でフィンランド公国建国が宣言された。しかしこれは、フィンランドに植民したスウェーデン人が中心で長くは続かなかった。この時代のフィンランドはスウェーデン=フィンランドと呼称されており、スウェーデンによる大国時代を形成していた。

1700年から始まった大北方戦争の結果の1721年ニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア)がロシア帝国に割譲された。ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると、1809年アレクサンドル1世フィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。その後、スウェーデンは戦勝国となったが、フィンランドはスウェーデンに戻らず、ロシアに留め置かれた。

19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し、『カレワラ』の編纂など独自の歴史研究がなされた。その一方でロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まった。

1899年ニコライ2世が署名した二月詔書には、高揚するロシア・ナショナリズムに配慮してフィンランドの自治権廃止宣言(フィンランド語版、英語版)が含まれていることがフィンランド人に発覚したため、フィンランドで暴動が発生している。1904年6月17日にはフィンランド民族主義者オイゲン・シャウマン(フィンランド語版、英語版)によるロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事に至り、ついに1905年には「自治権廃止」は撤回された。1917年のフィンランド上元老院。最初の議長であるペール・スヴィンヒュー(写真中央)が首相の座に就いた。

第一次世界大戦末期の1917年にはロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言した[8]1918年共産化し、オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立した。その後、敗戦国となったドイツ軍など外国の介入もあり、フィンランド南部で優勢だった赤軍は白軍のマンネルヘイムにより鎮圧され、1919年には憲法を構成するフィンランド政体法が制定された(フィンランド内戦)。

独立後のフィンランドの政情や国際情勢は不安定で、1921年にスウェーデンとオーランド諸島の領土問題で争ったが、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造による「新渡戸裁定」で解決をみた。1932年にはソビエト連邦との間に不可侵条約を締結したが、1939年にソビエト連邦は同条約の破棄を通告[9]。その直後から1940年の間、侵攻するソビエト連邦との間で冬戦争が行われ、国土(38万2,801km2)の10分の1を失った[10]。喪失した地域はおもに人口と産業密度の高い南東部で、ヴィープリ州には最も要となる港湾があった。ペツァモ州にはニッケル鉱床と国内唯一の不凍港北極海への出入り口があった。これらが失われたうえ、サイマー運河も両断された。カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(フィンランドの将官大統領

第二次世界大戦継続戦争)ではソ連と対抗するためにナチス・ドイツイタリア王国などの枢軸国側について戦い、一時は冬戦争前の領土を回復した。


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