フィンランド
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西側の技術によるオルキルオト原子力発電所とソ連の技術で建設されたロヴィーサ原子力発電所の両方を運用する唯一の国であり、オンカロ処分場2020年に開設されれば世界初の使用済み核燃料の最終処分場となる。情報産業政治と関係しており、公職経歴者が民間企業の幹部になる例として、エスコ・アホという首相経験者がノキア取締役を務めているようなことがある。

人口や経済規模は小さいが一人当たりGDPなどを見ると、豊かで自由な民主主義国として知られている。フィンランドは2014年のOECDレビューにおいて「世界でもっとも競争力が高く、かつ市民が生活に満足している国のひとつである」と報告された[1]。フィンランドは収入、雇用と所得、住居、ワークライフバランス、保健状態、教育と技能、社会的結びつき、市民契約、環境の質、個人の安全、主観的幸福の各評価において、全ての点でOECD加盟国平均を上回っている[1]

なお、同国は1995年、欧州連合(EU)加盟国となった。2020年の積極的平和指数で欧州連合で第1位にランクされた[2]

2022年、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて北大西洋条約機構(NATO)への加盟申請を行い[3]、2023年、トルコが承認したことでNATO全加盟国の承認が完了し[4]、同年4月4日にNATOに加盟した[5][6]
国名・象徴
国名

フィンランドは「フィン人の国」という意味で、スオミはフィン人の自称である。「スオミ」の語源については多くの説が提唱されており定説はないが、同じウラル系の「サーミ」や「サーミッド」(サモエード)と同源とする見方がある。「フィン」についてはタキトゥスゲルマニア』にある「北方に住む貧しいフェンニ人」が最古の現存する記述である。「スオミ」については古くはフィンランド南西端、バルト海沿岸にある都市トゥルクを中心とする限られた地域を指す単語であったのが、のちに国土全体を指す単語に変容し、そこに住んでいたスオミ族の名がフィンランド語の名称になった。トゥルク周辺は現在では「本来のスオミ(Varsinais-Suomi)」と呼ばれている。「スオミ」は、フィンランド語で「湖沼沼地」を表す単語「スオ」(suo)に由来すると言われる[7]

正式名称は、フィンランド語では Suomen tasavalta(スオメン・タサヴァルタ)、通称 Suomi [?suo?mi] ( 音声ファイル)(スオミ)。形容詞はSuomalainen(スオマライネン)。スウェーデン語では Republiken Finland(レプブリケン・フィンランド)、通称 Finland [?f??nland] ( 音声ファイル)(フィンランド)。形容詞はfinsk(フィンスク)( 各音声)。公用語はフィンランド語とスウェーデン語。

日本語の表記は フィンランド共和国、通称 フィンランド。漢字による当て字では芬蘭(古くは芬蘭土とも)と表記し、芬と略す。

英語表記は国名が「Finland」、国民が「Finn(s)」、形容詞は「Finnish」。
国の象徴詳細は「フィンランドの国の象徴(英語版)」を参照
歴史詳細は「フィンランドの歴史」を参照

通常は先史時代( - 1155年)、スウェーデン時代(1155年 - 1809年)、ロシアによる大公国(フィンランド大公国)時代(1809年 - 1917年)、独立後の現代(フィンランド王国時代を含む、1917年 - )の4つの区分に分かれる。

現在のフィンランドの土地には、旧石器時代から人が居住した。南には農業や航海を生業とするフィン人が居住し、のちにトナカイ放牧狩猟をするサーミ人が、北方に生活を営むようになった。400年代にノース人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住を開始し、居住域を拡大していった。

1155年にはスウェーデン王エリク9世北方十字軍の名のもとフィンランドを征服し、同時にキリスト教カトリック)を広めた。1323年までにはスウェーデンによる支配が完了し、正教会ノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領になった。16世紀の宗教改革でスウェーデンのグスタフ1世ルター派を受け入れたため、フィンランドもルター派が広まることになった。カトリックの承認を得ずに司教となったアグリコラ聖書翻訳を進めたことで、フィンランドは新教国としての性格を決定的にした。1662年のフィンランド

1581年にはフィンランドの独立が模索された結果、ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」(のちにフィンランド大公となった)"となり、スウェーデン王国が宗主国となる形でフィンランド公国建国が宣言された。しかしこれは、フィンランドに植民したスウェーデン人が中心で長くは続かなかった。この時代のフィンランドはスウェーデン=フィンランドと呼称されており、スウェーデンによる大国時代を形成していた。

1700年から始まった大北方戦争の結果の1721年ニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア)がロシア帝国に割譲された。ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると、1809年アレクサンドル1世フィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。その後、スウェーデンは戦勝国となったが、フィンランドはスウェーデンに戻らず、ロシアに留め置かれた。

19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し、『カレワラ』の編纂など独自の歴史研究がなされた。その一方でロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まった。

1899年ニコライ2世が署名した二月詔書には、高揚するロシア・ナショナリズムに配慮してフィンランドの自治権廃止宣言(フィンランド語版、英語版)が含まれていることがフィンランド人に発覚したため、フィンランドで暴動が発生している。1904年6月17日にはフィンランド民族主義者オイゲン・シャウマン(フィンランド語版、英語版)によるロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事に至り、ついに1905年には「自治権廃止」は撤回された。1917年のフィンランド上元老院。最初の議長であるペール・スヴィンヒュー(写真中央)が首相の座に就いた。

第一次世界大戦末期の1917年にはロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言した[8]


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