フィンセント・ファン・ゴッホ
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日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。1888年2月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。1890年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した()。発作等の原因については、てんかん統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている(病因)。

生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚のみだったと言われているが(他に売れた作品があるとする説もある)、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。彼の生涯は多くの伝記や、映画『炎の人ゴッホ』に代表される映像作品で描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といったイメージをもって語られるようになった(後世)。

弟テオや友人らと交わした多くの手紙が残され、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる(手紙)。約10年の活動期間の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2100枚以上の作品を残した[8]。有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画風景画などが多く、特に『ひまわり』や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンやセザンヌと並んでポスト印象派を代表する画家である。またその芸術は表現主義の先駆けでもあった(作品)。
生涯
出生、少年時代(1853年-1869年)中央右寄りがファン・ゴッホの生家ズンデルトの牧師館[9]

フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州ブレダにほど近いズンデルト[注釈 3]の村で、父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス、1822年-1885年)と母アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819年-1907年)との間の長男として生まれた。父ドルスは、オランダ改革派牧師であり、1849年にこの村の牧師館に赴任し、1851年、アンナと結婚した[11]。ブラバントは、オランダ北部とは異なりカトリックの人口が多く、ドルス牧師の指導する新教徒は村の少数派であった[12][注釈 4]

フィンセントという名は、ドルス牧師の父でブレダの高名な牧師であったフィンセント・ファン・ゴッホ(1789年-1874年)からとられている[11]。祖父フィンセントには、長男ヘンドリク(ヘイン伯父)、次女ドロアテ、次男ヨハンネス(ヤン伯父)、三男ヴィレム、四男フィンセント(セント伯父)、五男テオドルス(父ドルス牧師)、三女エリーザベト、六男コルネリス・マリヌス(コル叔父)、四女マリアという子があり、このうちヘイン伯父、セント伯父、コル叔父は画商になっている[14]

ファン・ゴッホの家族[注釈 5]父テオドルス母アンナフィンセント妹アンナ弟テオ妹エリーザベト妹ヴィル弟コル

父ドルス牧師と母アンナとの間には、画家フィンセントが生まれるちょうど1年前の1852年3月30日に、死産の子があり、その兄にもフィンセントという名が付けられていた[15][注釈 6]。画家フィンセントの後に、妹アンナ(1855年生)、弟テオドルス(通称テオ、1857年生)、妹エリーザベト(1859年生)、妹ヴィレミーナ(通称ヴィル、1862年生)、弟コルネリス(通称コル、1867年生)が生まれた[17]『農場の家と納屋』1864年2月、素描。

フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた[18]1860年からズンデルト村の学校に通っていたが、1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けた[17]。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる『農場の家と納屋』と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している[19]。1864年10月からは約20 km(キロメートル)離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った[17]。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している[20][手紙 1]

1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学した。


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