フィレンツェ
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標高50 (30 - 343) [2] m
面積102.41 [3] km2
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フィレンツェ県におけるコムーネの領域
ポータル イタリア
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フィレンツェ(イタリア語: Firenze [fi?r?ntse] ( 音声ファイル))は、イタリア共和国中部にある都市で、人口約360,000人の基礎自治体コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。英名由来のフローレンス、仏名由来のフローランスで呼ばれることもある。
概要

中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。

市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。
名称について
語源

古代ローマ時代、花の女神フローラ(Fl?ra)の町としてフローレンティア (Fl?rentia) と名付けた事が語源とされ、周辺国の呼称にもその名残がある。

中世イタリア語 Fiorenza [fjo?r?n?a](フィオレンツァ)

英語 Florence [?fl???ns](フローレンス)

フランス語、オランダ語 Florence フランス語: [fl?.???s] オランダ語: [flo?r??s](フロランス)

スペイン語 Florencia [flo??enθja](フロレンスィア)

ドイツ語 Florenz [flo???nts](フロレンツ)

漢字表記は夫羅凌斯, 福楞察

イタリア語における形容詞形、住民呼称は fiorentino [fjoren?tino](男性), fiorentina (女性)。
地理アルノ川
位置

フィレンツェはSenese Clavey Hillsの盆地に位置している。アルノ川と三つの小川が当地を流れる。
地形
河川
主な川


アルノ川

気候

フィレンツェは温暖湿潤気候 (Cfa) と、地中海性気候 (Csa) の境界線上にある[4]。当地は活発な降水によって蒸し暑い夏と、涼しく湿った冬が特徴である。いくつもの丘に囲まれており、7月から8月にかけては蒸し暑くなる。また盆地ゆえ風が少なく、夏の気温は周りの沿岸部より高い。夏の降雨は対流によるもの。一方冬の降雨降雪は別の理由によるものである。最高気温の公式記録は1983年7月26日の42.6℃で、最低気温は1985年1月12日の-23.2℃である[5]

フィレンツェの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)10.1
(50.2)12.0
(53.6)15.0
(59)18.8
(65.8)23.4
(74.1)27.3
(81.1)31.1
(88)30.6
(87.1)26.6
(79.9)21.1
(70)14.9
(58.8)10.4
(50.7)20.1
(68.2)
平均最低気温 °C (°F)1.4
(34.5)2.8
(37)4.9
(40.8)7.7
(45.9)11.3
(52.3)14.7
(58.5)17.2
(63)17.0
(62.6)14.2
(57.6)10.0
(50)5.5
(41.9)2.4
(36.3)9.1
(48.4)
降水量 mm (inch)73.1
(2.878)69.2
(2.724)80.1
(3.154)77.5
(3.051)72.6
(2.858)54.7
(2.154)39.6
(1.559)76.1
(2.996)77.5
(3.051)87.8
(3.457)111.2
(4.378)91.3
(3.594)910.7
(35.854)
平均降水日数9.48.48.69.18.66.33.55.95.77.410.08.891.7
出典:世界気象機関国連[6]

気候分類・地震分類

フィレンツェにおけるイタリアの気候分類 (it) および度日は、zona D, 1821 GGである[7]。また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 3 (sismicita bassa) に分類される[8]
隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。

バーニョ・ア・リーポリ

カンピ・ビゼンツィオ

フィエーゾレ

インプルネータ

スカンディッチ

セスト・フィオレンティーノ

歴史詳細は「フィレンツェの歴史(イタリア語版、フランス語版、スペイン語版、ドイツ語版)」を参照
古代

フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。
中世

中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配した(トスカーナ辺境伯(英語版)、846年 - 1197年)。次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、1115年には自治都市、13世紀に共和制となった(フィレンツェ共和国1115年 - 1532年)。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。

1300年頃、市国の外交政策を巡って教皇派と皇帝派に分かれた都市貴族の間で内乱が発生し、教皇派が勝利した。ところが今度は、教皇派の内部で自主独立派(白党)と教皇領従属派(黒党)の陣営に分かれて内乱が起きた(教皇派と皇帝派)。内乱に終止符が打たれ、敗れた白党に所属し、医師組合から統領に推されていたダンテ・アリギエーリ1302年、フィレンツェから追放される[9]。この間の事情については、当時のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニが年代記を残している。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。詳細は「教会大分裂」を参照

その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。メディチ家は金融業などで有力になり(メディチ銀行(イタリア語版、英語版)、1397年 - 1494年)、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。14世紀?15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。1410年ジョヴァンニ・ディ・ビッチローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、ピサ教会会議の対立教皇アレクサンデル5世が急死すると(暗殺説もある)、ヨハネス23世を対立教皇に据え、メディチ銀行は教皇庁との取引で莫大な利益を上げた。


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