フィルム・ノワール
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ニーノ・フランクが取り上げた作品は『マルタの鷹』のほかエドワード・ドミトリク『ブロンドの殺人者』、オットー・プレミンジャーローラ殺人事件』、フリッツ・ラング飾窓の女』(いずれも1944)、のちにフランクに続いて最初に「フィルム・ノワール」の呼び名を使用したジャン=ピエール・シャルティエは、これらのほかビリー・ワイルダー失われた週末』(1945)を取り上げている[9]

ここで取り上げられた映画作品がいずれも光と影のコントラストを強調しており、画面が以前のアメリカ映画よりもはるかに黒々として見えたことから、「ノワール(黒)」の呼び名は新しい映画の動きをよく言い当てているとも受け止められ[10]、やがてフィルム・ノワールという名前はアメリカを含む世界各国に広まってゆくことになった[4]深夜の告白』(1944)ポスター。
亡命者が支えたフィルム・ノワール

アメリカでこれらの映画を製作した人々の多くは、ナチスの迫害を逃れてハリウッドへ亡命した映画製作者たちだった[11]

彼らは第二次大戦前に映画大国だったドイツで、表現主義的なコントラストの強い照明や、レンズで構図を歪める手法といったハリウッド映画とは異なる撮影技術に習熟しており、それがそのままアメリカへ持ち込まれた[11]

また彼らはレイモンド・チャンドラーダシール・ハメットコーネル・ウールリッチなど、当時はB級と考えられていたアメリカ大衆小説作家の犯罪小説に強い関心を示し、そこに現れるシニカルでテンポのよい会話を映画の台詞に取り込んでゆくことになった[12]

彼らが作りだしたフィルム・ノワール映画の流行は遅くとも1960年代前半には衰退するが、暗く悲観的な物語構造や、スタイリッシュで陰鬱な画面を使う映像表現手法は世界各国に広まり、その後も多くの映画に流用されてゆく[2]
米国での再評価と「ネオ・ノワール」詳細は「ネオ・ノワール」を参照

英語圏の映画研究・映画批評において「フィルム・ノワール」の語が一般化したのはこの頃で、ニューヨーク近代美術館で開催された大規模な連続上映会や、映画監督・批評家ポール・シュレーダーによる評論などがそのきっかけとなった[2]

アメリカでフィルム・ノワールの後継と考えられている作品に、アラン・J・パクラコールガール』(1971)、フランシス・フォード・コッポラカンバセーション…盗聴…』 (1974)、ロマン・ポランスキーチャイナタウン』(1974)、アーサー・ペンナイトムーブス』(1975)、マーティン・スコセッシタクシー・ドライバー』(1976)などがある。

さらに1980年代以降には、後述するような特徴を多く持った作品をさして「ネオ・ノワール」と呼ぶ論者も現れた[13]。ここにはデビッド・リンチブルーベルベット』(1986) やクエンティン・タランティーノレザボア・ドッグス』(1992) などが挙げられている。ジョン・ウーウォン・カーウァイなどの作品を「香港ノワール」と呼ぶこともある[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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