フィリピン
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カガヤン渓谷では「カガヤン原人」の骨化石を求めて発掘作業が行われている[9]
古代

紀元前500年?紀元13世紀の間にマレー系民族が移住してきた。900年ごろの日付が記録されているラグナ銅版碑文(英語版)などによれば、当時既にカウィ文字(英語版)やバイバイン文字など複数の文化を受容出来る成熟した都市国家を形成していたことが明らかにされている。
イスラームの流入詳細は「フィリピンのイスラム教」を参照

14世紀後半にイスラム教が広まった。中国大陸)や東南アジアとの交易で栄えたが、7000を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域に統一国家は形成されていなかった。
スペイン植民地時代詳細は「フィリピン総督領」を参照スペイン植民地支配に抗したフィリピンの国民的英雄ホセ・リサール

大航海時代以降、ヨーロッパ列強は東南アジア各地を植民地化した。スペイン艦隊は太平洋を横断して東方からフィリピン諸島に到来。1521年ポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)が率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンのホモンホン島に到達した。マガリャンイスはこの後、マクタン島を攻めたが首長ラプ=ラプらに敗れ戦死した。1494年にスペインとポルトガルが結んだトルデシリャス条約ブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とし、1529年サラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャメキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まった。徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。これ以降、約250年間、マニラとメキシコ太平洋岸(アカプルコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。

1762年に、一時的にマニラがイギリス軍に占領されたが、1763年パリ条約が結ばれ再びスペインの管轄下に戻った。18世紀になってスペインは南部への侵攻を開始したものの、西南ミンダナオ島スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。

スペイン統治下で、メキシコやペルーボリビアから輸入したや、東南アジア各地や中国()の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船が多数建造され、メキシコのアカプルコとアジアを結んでいた。

ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、スペイン人は海外進出の目的の一つであったローマ・カトリック布教を進めた。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。

支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模が小さく局地的であり、容易に鎮圧されてしまった。独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立のとされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。リサールは、1896年12月30日に銃殺された。1898年米西戦争勃発により、アメリカ合衆国エミリオ・アギナルド[10]らの独立運動を利用するため支援した。ただこれは、後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった。

1899年6月12日、初代大統領エミリオ・アギナルドの下、独立宣言がなされ、フィリピン第一共和国が成立した。フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までを指す。

なお、征服者レガスピの1567年の書簡に、当時既に日本人ミンドロ島ルソン島へ毎年交易に来訪していたことが記されており、日比の交流はスペインが占領する以前からあったことがわかっている[11]。「南蛮貿易」も参照
第一共和国と植民地時代詳細は「フィリピン独立革命」、「米比戦争」、および「アメリカ合衆国旧陸軍省」を参照米比戦争を描いたアメリカ合衆国の絵画『パセオの戦い』

米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカ合衆国に譲渡された。1899年1月21日フィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。5月18日にサンボアンガ共和国(英語版)がサンボアンゲーニョ(英語版)によって建国された。

フィリピン共和国の建国を承認しないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したものの、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗運動は武力鎮圧された。1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアムプエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。1903年にサンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの反乱(英語版)は1913年まで続いた。フィリピン史では、1899年2月から1902年7月までをフィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている[12]

その後、フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年にジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領が成立した。1920年代にRCAが広域無線局を設置、ここを中継地点として香港経由で中国と交信した。1929年に世界恐慌が発生すると無課税でアメリカ本土に移入されていたフィリピンの砂糖がアメリカ本土の甜菜糖やキューバ糖に打撃を与え、アメリカの資産家で破産するものが続出した。そのためフィリピン糖排撃の声が高まり、関税を課すことを目的にフィリピン独立が叫ばれるようになった[13]。1934年にアメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り[13]タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾したことで、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行した。一方でアメリカはフィリピンにアメリカへの依存貿易を続けさせるなどの利権を確保し続けた[14]。「島嶼局(英語版)」および「島嶼政府(英語版)」も参照
第二次世界大戦と独立マニラに向けて進撃する日本軍戦車隊(1942年1月)詳細は「日本占領時期のフィリピン」、「フィリピンの戦い (1941-1942年)」、「フィリピンの戦い (1944-1945年)」、および「マニラ大虐殺」を参照


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