フィリピン
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アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、日本も1943年5月の御前会議の「大東亜戦略指導大綱」で、フィリピン(フィリピン行政委員会)とビルマを独立させる方針を決定し[15]、1943年10月14日ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。しかし、いずれも「大日本帝国を盟主とする大東亜共栄圏の一環として」の独立で、日本とは同盟条約が結ばれ、「外交は帝国に緊密に提携せし」とされ、軍の編制権・統帥権は事実上日本が握っていた。アメリカは日本の傀儡政権であるとしこれを認めなかった[16][17]。実際には、フィリピンでは参戦と外征に対する反対が強く、日本は即時参戦を強要することはいったんあきらめた。その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。日本の敗戦が濃厚になると1944年12月8日に親日義勇隊のマカピリが設立されベニグノ・ラモスなどが参加し、戦闘に加わった[18]。また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェゲリラと共産系のフクバラハップが各地で抗日ゲリラ戦争を行った。

1944年9月21日、22日、アメリカ軍機によりマニラ市内が激しい空爆にさらされると、同月23日、ラウレル政権はアメリカとイギリスに対して宣戦布告を行った[19]。しかし同年末に米軍が反攻上陸、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり[20]、マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、アメリカ軍の攻撃により2つを残して破壊された。
再独立第三次フィリピン共和国がアメリカ合衆国より独立(1946年7月4日)

1945年日本敗戦に伴い、独立を失いアメリカの植民地に戻ることを余儀なくされることとなったが、1946年マニラ条約で、フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継ぎ、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国が再独立した。

冷戦下では地主支配(アシエンダ)打倒を訴える共産系のフクバラハップが勢力を拡大し、ルソン島ではゲリラ戦争が続いたが、1950年代中に共産ゲリラはアメリカからの全面的な支援を受けたラモン・マグサイサイの手によって一度壊滅した。その後、親米政権によって農地改革が行われたものの、実効性には乏しいものとなった。
マルコス独裁フェルディナンド・マルコスイメルダ夫人(1984年10月20日)

1965年より反共産主義を唱えるフェルディナンド・マルコス大統領がマルコス独裁国家(英語版)体制を築いた。アメリカ合衆国からの支持を得たマルコス政権は、20年に渡る開発独裁政権となり、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}イメルダ・マルコス大統領夫人をはじめとする取り巻きによって、私物化され腐敗した政権に対して、中華人民共和国ソビエト連邦からの支援を受けたモロ民族解放戦線や再建共産党の新人民軍(NPA)による武装蜂起が発生した[要出典]。
エドゥサ革命

民衆の不満が高まったため、1986年2月22日に起きた「エドゥサ革命」(二月革命、ピープル・パワー革命)でマルコス政権は崩壊し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立した。この革命は同年2月22日の国軍改革派将校の決起から25日のコリーアキノ政権樹立に至る4日間の出来事であった。民主化を求める市民が、マニラ首都圏の中心部でデモや集会、座り込みや兵士に花束を渡す行動を起こした。その模様をリアルタイムで、多くのテレビカメラの放列が世界中に生放送した。これらマスメディアの報道が心理的圧力となり、フィリピン共和国軍は市民に銃を発砲出来無かった[21]

マルコスとイメルダはアメリカ合衆国ハワイ州亡命した[22]新人民軍による三井物産マニラ支店長誘拐事件(1986年11月15日 - 1987年3月31日)が発生。

第二次世界大戦後の冷戦期間中のフィリピンは、同じく西側諸国に属すこととなった日本と同様に、極東アジアにおけるアメリカの重要な拠点となり、米軍に基地を提供していたが、1990年代初頭の冷戦終結を受けた米軍のアジア駐留軍縮小、およびピナトゥボ山の噴火に伴う基地機能の低下、フィリピン国内のナショナリズムの高揚、フィリピン共和国憲法改正により、在比米軍は軍備を沖縄に集約し、フィリピンから撤退した。
フィリピン紛争詳細は「フィリピン紛争」および「en:Moro insurgency in the Philippines」を参照噴火するピナトゥボ山(1991年6月12日)

フィリピンの共産主義勢力フクバラハップは、第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにマグサイサイ指揮下のフィリピン政府軍に制圧された。1969年毛沢東主義による革命と体制変革をめざすフィリピン共産党 (CPP)(再建共産党)は新人民軍(NPA New Peoples Army)を結成し、フィリピン政府軍に対する武装闘争を開始した。NPAは、ルソン島を中心にフィリピン全国に展開し、フィリピンの軍隊・警察・インフラ・企業に対する武力攻撃を繰り返し、フィリピン政府軍はNPAの武力攻撃に対して掃討戦を継続しているが、海外のテロ支援国家の支援を受けるNPAを完全制圧することは難しく、2013年時点、武力行使は継続中である。

ミンダナオ地区にイスラム教による自治区を作ることを目的としたモロ民族解放戦線 (MNLF Moro National Liberation Front) は、1970年にフィリピン政府軍に対して武装闘争を開始し、MNLFと政府軍の武力紛争は1996年まで継続した。1996年、MNLFはフィリピン政府との和平協定を締結して武装闘争を終結し、フィリピン政府はミンダナオ地区にMNLFのイスラム教による自治を受け入れ、その後はミンダナオ・イスラム自治区の与党として活動している。しかし2013年9月、後述するMILF主導の和平交渉への反発から、再び政府軍と衝突した[23]

モロ・イスラム解放戦線 (MILF Moro Islamic Liberation Front) は、モロ国民解放戦線 (MNLF) がフィリピン政府と和平協定を締結しようと方針転換したことに反対し、フィリピン政府軍との武力闘争を継続するために、1981年にMNLFから分離独立し、フィリピン政府軍に対して武装闘争を継続した。1997年、MILFはフィリピン政府と停戦協定を締結したが、その協定は2000年エストラーダ政権により破棄された。2003年、MILFはアロヨ政権と停戦協定を締結したが、2005年にMILFは停戦協定を破棄してフィリピン政府軍に対する武力攻撃を再開。2012年10月、政府との間で和平枠組み合意に至る[24]

アブ・サヤフ・グループ(Abu Sayyaf Group)は、フィリピンのミンダナオ島、スールー諸島、ボルネオ島およびインドネシア、マレーシア、タイミャンマーなどの東南アジア地域にイスラム教で統治する国家の設立を目ざして、1990年にフィリピン政府に対して武装闘争を開始した。アブ・サヤフ・グループは、フィリピン政府軍および一般市民に対して爆弾攻撃、暗殺、誘拐・監禁、身代金要求を繰り返し、2000年以後は活動地域をマレーシア、インドネシアへも拡大し、2013年時点、武力闘争を継続中である。
アジア通貨危機以降

フィリピン経済に転機が訪れたのは、1990年代後半だった。1997年アジア通貨危機が発生すると、そのあおりを受けてペソ暴落に見舞われたが、経済がバブル状態ではなかったので、財政破綻したタイ、一時期国家崩壊の危機に陥ったインドネシア、国家破綻しかけた韓国などに比べると回復は早く、国際通貨基金(IMF)の管理下になることを免れた。


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