フィリピンの戦い_(1941-1942年)
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マッカーサーは1935年にアメリカ陸軍参謀総長を退任し、マニュエル・ケソンの要請でフィリピン軍新設のための軍事顧問に就任していた。その後1937年にアメリカ陸軍を退役していたが、1941年7月にフランクリン・ルーズベルト大統領の要請を受け、現役に復帰してフィリピン駐屯のアメリカ極東陸軍の司令官となっていた。マッカーサーは、10個師団にまで育て上げたフィリピン軍と、アメリカ軍の最新鋭機の戦力をもってすれば、フィリピンの防衛が可能であると考えていた。1941年10月にオレンジ計画を引き継いでレインボー計画が改定(RAINBOW 5)されたとき、マッカーサーは見直しを要求し、フィリピン全土の要所に兵力を配置する積極的な防衛策に転換した[7]。10月6日、スチムソン陸軍国務長官がフィリピンの防備が整っていないことを理由に「われわれの地歩を確保するには、3ヶ月は必要だ」とハル国務長官にもし入れた[8]。以後の日米交渉は引き伸ばされることが目的と化した[9]
フィリピン作戦詳細は「フィリピン作戦」を参照

日本は1923年に帝国国防方針を改定してアメリカを仮想敵国の第一位としており、対米戦の基本構想としては、開戦後速やかにフィリピン主要部を占領し、極東におけるアメリカ軍の根拠地を奪う作戦が検討されていた。日本では、1941年11月5日、御前会議で対英米蘭戦争が決定され、6日に南方作戦部隊の戦闘序列が下令された。

南方作戦はマレーからの左回り作戦とフィリピンからの右回り作戦の二本建てでジャワを目指す作戦であった[10]。フィリピン作戦は南方作戦陸海軍中央協定において作戦名称を「E作戦」と定められた[11]。また、「比律賓(フィリピン)に対する作戦目的は、比律賓に於ける敵を撃破しその主要なる根拠を覆滅するに在り」と定められている[12]
経過

記載時間は日本時間。
ダバオ攻略フィリピンの戦いの推移フィリピンの戦いにおける日本軍の銀輪部隊

1941年12月7日午後9時35分、第一天候偵察隊の陸攻2機が台南基地を発進。午後11時30分、第二天候偵察隊の陸攻2機が発進。偵察の結果、攻撃隊の夜間進撃が可能な状態と判断された。8日午前0時15分、この偵察を探知した米軍はイバ、クラークに全機15分待機を下令し、その後日本の偵察機要撃のため、戦闘機を発進させ、日本の高雄通信隊はそれらを傍受した[13]

日本の各航空部隊は8日午前2時30分の発進の準備を進めていたが、濃霧が発生し、「〇五〇〇以後二時間待機」を命じ、攻撃隊の発進を遅らせた[13]。また、マニラ地区の攻撃を中止して第一撃をクラーク、イバ両基地に集中する作戦に変更された。午前3時20分、航空部隊司令部はハワイ奇襲成功を知り、続いて米太平洋艦隊司令長官がアジア艦隊に対して作戦開始を発令したことも承知した[14]

8日、太平洋戦争の開戦劈頭、フィリピンに対する航空攻撃は理想的成果を収め、翌9日は天候不良のため十分な活動ができなかったが、10日には第11航空艦隊がマニラ周辺航空基地および海軍基地を攻撃し、米航空戦力のほとんどを壊滅したため、先遣隊の上陸は大きな航空被害を免れた[15]。20日、ダバオ攻略部隊は大きな抵抗を受けることなく上陸に成功し、ダバオ市を占領した[16]
マニラ攻略

第14軍の一部は12月8日に離島のバタン島、10日にルソン島北端のアパリとビガン、12日にルソン島南端のレガスピーに上陸し、現地の飛行場を確保して航空部隊を前進させた。第14軍主力(第48師団および第16師団上島支隊と左側支隊)は22日にリンガエン湾に、第16師団主力は24日に東岸のラモン湾に上陸した。リンガエン湾では天候が急変して高さ2メートル以上の波浪を生じ、米比軍北部ルソン部隊の一部による抵抗もあって上陸作戦は難航したが、先にビガンに上陸していた田中支隊による側面攻撃が間に合い、米比軍は撤退した。ラモン湾の上陸戦闘ではベルリンオリンピック棒高跳大江季雄が戦死している。

そのころマッカーサー司令官は、古いオレンジ計画に立ち戻り、マニラ湾を挟んでマニラと向かい側のバターン半島コレヒドール島に立てこもる決断をしていた。22日にジョージ・マーシャル参謀総長へ至急電を送って許可を要請し、マーシャルも撤退を了承した。23日、マッカーサーは配下の各部隊長に方針を伝達し、アメリカ極東軍司令部とフィリピン政府もバターン半島への移動を開始した。

12月26日午後12時、陸軍第14軍主力を予定通り上陸させることに成功した日本海軍は第二期兵力部署を発令。日本海軍はフィリピン作戦の大部を終え、主力は次の蘭印作戦に移行した[17]

日本陸軍はマニラ平野の東側を第48師団、西側を上島支隊が進撃し、東海岸からも第16師団が首都マニラを目指した。自動車編成の第48師団に対して、上島支隊も自転車を調達し銀輪部隊となってこれに負けないスピードで進撃を続けた。だが30日、上島支隊はフィリピン第21師団と対戦してこれを撃破したものの、連隊長上島良雄大佐は流れ弾を受けて戦死する。

日本軍は南北からマニラへ迫り、同市は26日に無防備都市宣言をした。1942年1月2日午後、マニラは第14軍のリンガエン湾上陸からわずか11日で陥落した。

第14軍司令官本間雅晴中将はマニラ入城にあたり将校800名を集めて1時間に渡り「焼くな。犯すな。奪うな。違反したものは厳罰に処す」と訓示を行い、将校は各部隊に戻ると兵に軍司令官の訓示を伝えた[18]

第14軍の主計将校がマニラ陥落後に東京の陸軍省に報告に来た際、マニラ陥落直後に日本軍の幹部将校たちがマニラ大学の女子学生たちを強姦したことを自慢げに報告していたと、当時陸軍省勤務だった鹿内信隆は証言している[19]
第一次バターン半島攻略戦1942年1月8日のバターン半島の状況

米比軍はマニラを捨ててバターン半島へ至る道路を死守し、周辺にあった全部隊の半島への撤退を成功させていた。日本軍でもバターン半島へ向けて多数の米比軍が移動しつつあることは確認していたが、所詮は敗残兵で、兵力は40,000ないし45,000程度であろうと見込んでいた。蘭印作戦の日程が繰り上げとなったこともあり、バターン半島を軽視すべきでないという異論もあったものの[20]南方軍は第48師団と第5飛行集団の大部分に蘭印・ビルマ方面への転進を命じた。バターン半島の攻略には、歩兵第9連隊と、二線級部隊の第65旅団とを差し向ければ十分というのが南方軍と大本営の判断であった。

第65旅団は第二次輸送部隊として1月1日にリンガエン湾に到着していた。9日、第65旅団(歩兵第9連隊を臨時に配属)はバターン半島入り口のナチブ山周辺の米比軍防衛線へ攻撃を開始した。だが米比軍の陣地は数線にわたって巧妙に配置されており、アメリカ軍フィリピン師団が有効な反撃を加え日本軍には死傷者が続出した。バターン半島は米比軍がオレンジ計画に基づいて構築していた堅固な防衛線であり、ナチブ山周辺の第一線の後方にも、バガックからピラーに至る第二線、マリベレス山周辺の第三線が控えていたのである。

16日以降、日本軍は半島西海岸に第16師団木村支隊(歩兵第20連隊基幹、兵力5,000)を投入したが、やはり米比軍の頑強な抵抗に遭う。22日夜には恒広大隊を舟艇機動させ米比軍の背後に上陸させる奇襲作戦を試みたが、逆に米比軍に包囲され全滅した。24日に連合軍は防衛線の引き下げとマッカーサーによる後退命令によって、南に軍が殺到した[21]。第65旅団は粘り強く攻撃を続け、26日までに米比軍を第二線へ後退させたが、第二線は最も強化された防衛線であった。ここに攻めかかった第65旅団は兵力の3分の2を失い、幹部も多数が戦死した。2月8日に本間中将は攻撃停止を指示し、日本軍の攻勢は中断に至った。
第二次バターン半島攻略戦バターン半島を制圧した日本軍

バターン半島の戦線が膠着したことで、犠牲を払ってでもこれを攻略すべきか、あるいは封鎖するにとどめるべきか、第14軍、南方軍、大本営のいずれにあっても議論が分かれた。アメリカ軍主力艦隊は真珠湾で痛手を受けており、当面はバターン半島救援は不可能である。封鎖を続けていれば遠からず食糧弾薬が底をつくことは明らかであった。しかし日本軍には攻略を急がざるを得ない理由もあった。日本軍は満州ソ連軍と対峙し、中国大陸から東南アジアに至る広大な地域で作戦を展開中で、長期にわたって封鎖を続ける兵力の余裕はなかった。また、有力な米比軍をマニラの目の前に残したままではフィリピンでの軍政は困難であると判断された[22]

1月末から2月にかけて、日本軍はアメリカ・フィリピン軍が後退したバガオからオリオンにかけての防衛線に対して攻撃をしたが、日本軍はアメリカ・フィリピン軍を2万5千と過小評価していたが、実際はその3倍の兵力が展開しており、塹壕やトーチカに篭りつつ、一歩も引かない防戦によって、日本軍は多くの損害を出した[23]。しかし、アメリカ軍も状態が良いわけではなく、アメリカ軍に加勢したフィリピン人が日本軍に自ら捕虜になったり、ケソン大統領がフィリピンが中立を宣言する提案をマッカーサーに出した[24]


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