2005年、タイム誌が1923年以降の英米の小説ベスト100を掲載し、そこにはディックの『ユービック』も含まれていた[12]。2007年、ディックは、SF作家として初めて The Library of America series に収録された[13][14][15][16]。
ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムはアメリカSFを全面批判したが、ディックだけは称賛し「ペテン師に囲まれた幻視者」と彼を評している[17]。ただし、後の1976年に「アメリカSF批判」の件でレムがアメリカSF作家協会から追放された「レム事件」が起きた際、ディックは「ポーランドで自分の作品が騙されて出版された」として、彼を猛烈に非難した[18]。 ディックの父は、アメリカ合衆国農務省の役人だった[19]。 1928年、イリノイ州シカゴにて二卵性双生児の一子として生まれる[4]。双子の妹ジェイン・シャーロット(Jane Charlotte)は40日後に死去した。その死は、彼の作品、人間関係、人生にまで影響を与え、多くの作品に「幻影の双子」のモチーフが登場する原因となった[19]。 その後、一家はサンフランシスコ・ベイエリアに引っ越した。ディックが5歳のとき、父はネバダ州リノに転勤になったが、母はついて行くのを嫌がり、結果として両親が離婚することになった。親権は母親が得た。母はワシントンD.C.に職を得て、そこにディックと共に引っ越した。ワシントンD.C.では、小学4年生まで過ごした。作文の成績は C だったが、教師は「物語を作ることへの興味と才能がある」と意見を記している。1938年7月、母と共にカリフォルニアに戻り、この頃からSFに興味を持ち始めた[20]。ディックは、後に1940年に初めてSF雑誌というもの(Stirring Science Storiesという誌名だったという)を読んだと述べている[20]。 バークレーの高校に入学した。アーシュラ・K・ル=グウィンとは同じ高校の同学年(1947年卒)だったが、当時は互いを知らなかった[21][22][23]。高校卒業後にカリフォルニア大学バークレー校に進学してドイツ語を専攻したが、ROTCに参加するのが嫌で中退した。バークレーでは、詩人のロバート・ダンカンや詩人で言語学者のジャック・スパイサー 1950年代初期に執筆した処女作「市に虎声あらん」は、核実験やカルト宗教を題材にしたSFではない文学作品だったが、暴力描写などが原因で生前は出版社に拒否され、結局出版できたのは2007年であった。1951年に出版社に売れた最初の小説「ルーグ」も修正を指示され、雑誌に掲載できたのは1953年だった。この作品以降専業作家となり、商業誌に最初に作品が掲載されたのは1952年の「ウーブ身重く横たわる」である。1955年には長編『太陽クイズ(偶然世界)』が初めて売れた。1950年代はディックにとって最も貧しく苦しい時期で「図書館の本の延滞料すら払えなかった」という。SF短編を書いて糊口を凌いでいたが、出版できなかった処女作のような純文学を書くことを夢見ていた。
経歴
前半生
作家