フィリップ・K・ディック
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アーシュラ・K・ル=グウィンとは同じ高校の同学年(1947年卒)だったが、当時は互いを知らなかった[21][22][23]。高校卒業後にカリフォルニア大学バークレー校に進学してドイツ語を専攻したが、ROTCに参加するのが嫌で中退した。バークレーでは、詩人のロバート・ダンカンや詩人で言語学者のジャック・スパイサーと親交を結び、スパイサーはディックに火星人語のアイデアを与えている。ディック本人の言によれば、彼は1947年にKSMOというラジオ局でクラシック音楽番組の司会を務めていたという[24]。1948年から1952年まで、レコード店の店員として働いた。1955年、ディックとその2番目の妻であるクレオ・アポストロリデエスの前にFBIの捜査員が現れた。彼らは、クレオが社会主義者で左翼活動をしていたせいだと思い込んだ。2人はそのFBIエージェントに一時的に力を貸した[25]
作家

1950年代初期に執筆した処女作「市に虎声あらん」は、核実験やカルト宗教を題材にしたSFではない文学作品だったが、暴力描写などが原因で生前は出版社に拒否され、結局出版できたのは2007年であった。1951年に出版社に売れた最初の小説「ルーグ」も修正を指示され、雑誌に掲載できたのは1953年だった。この作品以降専業作家となり、商業誌に最初に作品が掲載されたのは1952年の「ウーブ身重く横たわる」である。1955年には長編『太陽クイズ(偶然世界)』が初めて売れた。1950年代はディックにとって最も貧しく苦しい時期で「図書館の本の延滞料すら払えなかった」という。SF短編を書いて糊口を凌いでいたが、出版できなかった処女作のような純文学を書くことを夢見ていた。この時期にジャンルに捕らわれないSF以外の長編をいくつか書いているが、注目を集めることはなく、1960年に「純文学の作家として成功するには20年から30年かかる」と書いている。しかし1963年1月、エージェントから売れなかった純文学作品を全て送り返され、純文学作家の夢が絶たれた。唯一生前に出版された純文学作品が『戦争が終り、世界の終りが始まった』である[26]

1963年、『高い城の男』でヒューゴー賞を受賞[6]。SF界では天才として迎えられたが、エース・ブックスなどの原稿料の安いSF出版会社にしか相手にされなかったという面もある。その後も経済状態は好転しなかった。1980年に出版された短編集『ゴールデン・マン』でディックは「数年前病気になったとき、会ったこともなかったハインラインが何か出来ることはないかと助力を申し出てくれた。彼は電話で元気付けてくれ、どうしているかと気遣ってくれた。ありがたいことに電動タイプライターを買ってやろうと申し出てくれた。彼こそこの世界の数少ない真の紳士だ。彼が作品に書いていることには全く同意できないが、そんなことは問題ではない。あるときIRSに多額の課税をされてそれを払えずにいると、ハインラインがお金を貸してくれた。彼とその奥さんは私の恩人だ。彼らに感謝の印に本を捧げたこともある。ロバート・ハインラインは素晴らしい外見の男で、非常に印象的で軍人のような姿勢である。髪型に至るまで軍人としての背景が見て取れる。彼は私が頭のおかしいフリークだと知っていて、それでも私が困っていたときに助けてくれた。これこそが人間性というものだ。そういう人やものを私は愛している」と書いている[27]

1972年、ディックは原稿や資料をカリフォルニア州立大学フラトン校の Special Collections Library に寄贈し、それが Philip K. Dick Science Fiction Collection として Pollak Library に収蔵されている。フラトン校でディックはSF作家の卵だったK・W・ジータージェイムズ・P・ブレイロックティム・パワーズと親交している。ディック最後の長編は『ティモシー・アーチャーの転生』で、1982年、彼の死後に出版された。
神秘体験

1974年2月20日、ディックは親知らずを抜き、その際のチオペンタールの効果から回復しつつあった。追加の鎮痛剤の配達を受け取るためドアに応対に出ると、女性配達員が彼が "vesicle pisces" と呼ぶシンボルのペンダントを身につけていることに気づいた。この名称は彼が2つの関連するシンボルを混同していることに起因すると見られる。1つは2つの弧を描く線が交差して魚の形になっているイクトゥスで、初期キリスト教徒が秘密のシンボルとして用いたものである。もう1つは2つの円が交差した形の vesica piscis である。女性配達員が立ち去ると、ディックは奇妙な幻覚を体験し始めた。当初は鎮痛剤に起因するものと思われたが、何週間も幻覚が続いたためディックは鎮痛剤のせいだけではないと考えた。「私の心に超越的で理性的な精神が侵入するのを体験し、これまで正気でなかったのが突然正気になったかのように感じた」とディック自身がチャールズ・プラットに語っている[28]

1974年の2月から3月まで彼は一連の幻覚を体験し、これを "2-3-74"(1974年2月-3月の意)と名付けた。ディックによれば、最初はレーザービームと幾何学模様の幻覚が見え、時折イエス・キリスト古代ローマの幻影が見えたという。幻覚は長さと頻度が増していき、ディックは自分が「フィリップ・K・ディック」であると同時にローマ人に迫害された紀元1世紀のキリスト教徒「トーマス」でもあり、二重の人生を生きていると主張し始めた。ディックは自らの体験を宗教的に解釈しようとし始めた。彼はその「超越的な理性的精神」を "Zebra"、"God"、"VALIS" などと呼ぶようになる。彼はその体験をまず半自伝的小説『アルベマス』に書き、さらに『ヴァリス』、『聖なる侵入』、『ティモシー・アーチャーの転生』というヴァリス三部作を書いた。

あるときディックは預言者エリヤが乗り移ったと感じた。彼は『流れよ我が涙、と警官は言った』が自身が読んだことのない聖書の使徒行伝の物語を詳細化した改作だったと信じた[29]


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