フィリッピの戦い
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そして、エグナティア街道の南側にカッシウス、北側にブルトゥスが陣営地を構え、暫くしてリベラトレス側の陣営地の近くまで到着した三頭政治側のアントニウスとは南側でカッシウスが、オクタウィアヌスとは北側でブルトゥスがそれぞれ対峙した[8]
両軍の戦力比較

三頭政治側は19個の軍団(レギオ)を擁しており(他の軍団はイタリア本土へ残された)、文献に記載のある軍団は第4軍団の1つだけであるが、フィリッピの戦いの後に入植に参加した第6第7第8第10、第12、第13、第16、第18、第19、第30の各軍団も三頭政治側として参戦したと考えられている。

アッピアノスによると、三頭政治側の軍団兵はほとんど定員を満たしていたと伝わっている。三頭政治側は騎兵部隊の戦力が大きかった(アントニウスが20,000、オクタウィアヌスが13,000)[9]

リベラトレス軍は17個軍団を擁し、ブルトゥスが8個、カッシウスが9個の軍団を指揮していた。また、これとは別にグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスが指揮を取る海軍兵力として2個軍団があった。

但し、リベラトレス側の軍団は定員を満たしていたのは僅かに2つだけであったとされる。そのため、同盟関係にあったプトレマイオス朝パルティアなどの東方の諸国家から援軍を得て、強化した。アッピアノスはリベラトレス側の歩兵戦力は約80,000であったと記している。

リベラトレス軍の騎兵部隊は東方諸国家からの同盟軍5,000を含む総数17,000であった。リベラトレス軍には東方属州へ駐屯していたカエサルの時代より従っていた軍団(恐らくは第27、第31、第33、第36、第37の各軍団)が属していた。これらの軍団兵のほとんどがカエサル時代からの歴戦の兵士であったと考えられ、第27、第31、第33、第37の各軍団はそれに該当する。尚、第36軍団はグナエウス・ポンペイウスが元々は率いていた軍団兵から構成され、ファルサルスの戦い紀元前48年)の後にカエサルの軍団に加わった。

そのため、カエサルの相続人と称する三頭政治側と戦うリベラトレス側の軍団にカエサルを暗殺したカッシウスらへ忠誠心を持たせるのは微妙な問題であった(なお、この時期のオクタウィアヌスは自らを「オクタウィアヌス」と称さずに、単に「ガイウス・ユリウス・カエサル」と呼ばせていた点は重要である)。

カッシウスは自らの軍団兵から忠誠心を得るため、「我々はカエサルの私兵として存在しているのではない」や「我々は共和国の兵士なのだ」などの強い口調で鼓舞したり、軍団兵1人につき1,500デナリウスケントゥリオ1人に7,500デナリウスを渡すなどの、あらゆる方法を試みた。

古代の資料には両軍の総兵力数の情報は無いが、両軍共にほぼ互角の兵力であったとされる(現代の歴史家は両軍共に約100,000の兵力がいたと推定している)。
戦局の推移
第1戦(10月3日)

アントニウス軍は再三の戦いを仕掛けていたが、リベラトレス側は防御を固めて陣営地の優位性を活かし、挑発に乗ることは無かった。そのため、アントニウスは密かに南の沼沢地を横切ってリベラトレス軍の陣営地への攻撃を試みて、大変な苦労の結果、アントニウス軍は沼沢地を抜けることに成功した。最終的にカッシウスによってアントニウス軍の動きは見破られたが、両軍が対峙する形となり、膠着状態にあった戦局が動き出すきっかけとなった。

紀元前42年10月3日、フィリッピでの最初の戦いが行われた。1度目の戦い(10月3日)の両軍の展開図.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  三頭政治側  リベラトレス側

カッシウスの陣営地と沼沢地の間の防御施設への攻撃を目的として、アントニウス軍とカッシウス軍が交戦した。

アントニウス軍によるカッシウス軍への攻撃を受けて、ブルトゥス軍はもう片方の三頭政治側のオクタウィアヌス軍へ攻撃命令を待たずに急襲した。

ブルトゥス軍による急襲は完全に成功し、ブルトゥス軍のマルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌスが率いる部隊によってオクタウィアヌス軍は敗走して、メッサッラ・コルウィヌスの部隊はオクタウィアヌス軍の陣営地を奪取した。オクタウィアヌス軍の3個軍団は明らかな崩壊状態となり、オクタウィアヌスは陣営地から離れていたため発見できなかったが、オクタウィアヌスの椅子を破壊し[10][11]、オクタウィアヌス軍から3本のアクィラ(鷲章)と多くの軍旗を奪い取った[12]

なお、多くの歴史家は「オクタウィアヌスがその日のことを夢で知っていたため、難を逃れた」と伝え[11][13]ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)はオクタウィアヌスは沼沢地へ逃れたから無事であった、としている。

エグナティア街道のもう一方では、アントニウス軍がカッシウス軍が設営した防御柵を破壊し、防御用の水路(掘割)を埋めたことでカッシウス軍の防御施設を攻撃できたため、アントニウス軍は難なくカッシウス軍の陣営地を占拠した[12]

また、南へと進んでいたカッシウス軍の一部隊は本陣へ戻ろうと試みたが、アントニウス軍の部隊に撃破された。

結果的に両軍の戦いは痛み分けに終わった、カッシウス軍が約9,000名を失ったのに対して、オクタウィアヌス軍は18,000名もの死傷者を出すに至った[14]

しかしながら、戦線が拡大して、激しい砂塵が起こっていたため戦局の判断が困難であったため、両軍の間の戦局動向を把握することが出来なかった。カッシウスは、丘の頂上へと退いたが、ブルトゥス軍の動向を掴むには至らなかった[13]

カッシウスはブルトゥスが大敗を喫したものと判断したため、カッシウスはピンダルスという名の解放奴隷に自らを殺させた。ブルトゥスはカッシウスの遺体と対面した時に、カッシウスを「最後のローマ人」と呼び、その死を悼んだ[13][15]。しかし、軍隊の士気が低下することを恐れて、ブルトゥスはカッシウスの公葬を避けた。

ブルトゥス軍は強欲さによって、占領したオクタウィアヌス軍の陣営地での略奪に終始したため、オクタウィアヌス軍に戦線再構築の時間的余裕を与え、ブルトゥス軍はオクタウィアヌス軍に対する決定的な勝利を生かすことが出来なかった。
第2戦(10月23日)

フィリッピでの第1戦が行われていたのと同日、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスが率いるリベラトレス側の海軍は、三頭政治側のグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスが率いた2個軍団と輸送用の船団を哨戒中に撃滅することに成功した。

この結果、リベラトレス側は制海権を保った上、海上を経由して物資を無尽蔵に受けられる体制が構築できているのに対して、三頭政治側は主たる食糧の供与先であったマケドニアとテッサリアからの供給余地が乏しく、兵站の確保に窮しかねない戦略的な危機に陥ることとなった[16]

そのため、三頭政治側は物資を確保する目的で南のアカエア(ギリシャ)へ軍団を送る必要に迫られた。また、三頭政治側は、兵士を鼓舞するために軍団兵1人あたり5,000デナリウスケントゥリオ1人あたり25,000デナリウスを渡すことを約束した。

しかしながら、一方のリベラトレス側は、カルラエの戦いなどに従軍し一応の軍事的な経験を持っていたカッシウス[17][18] が第1戦で自殺し、残ったマルクス・ブルトゥスに軍事経験が少なかったことから、良い戦略も持たずに無為に過ごしていた。

ブルトゥスは第1戦目の後に配下の兵士たちへ各1,000デナリウスの報酬を渡したにも関わらず、リベラトレス側の兵士および同盟国の兵士から敬意を得ることは出来なかった。

第1戦目から3週間の内に、ブルトゥス軍の陣営地の南側に当たるカッシウスが第1戦で陣営地を構えていた丘陵の近郊に、ブルトゥス軍が全く備えを置いていなかったため、同地へのアントニウス軍による進軍を許した。2度目の戦い(10月23日)の両軍の展開図  三頭政治側  リベラトレス側

アントニウス軍の動きに対して、ブルトゥスは側面からの攻撃を防ぐため、エグナティア街道と平行して幾つかの防御柵を構築しながら、南側へ戦線を広げることを強いられた。

とは言え、ブルトゥス側は陣営地を戦術的に有利な高地に置き、ドミティウス・アヘノバルブス率いる海軍との連絡も保っており、未だ優位であったことから、ブルトゥスは優勢な海軍の勢力を活用し、正面からの戦闘による決着をなるべく避けて、物資の乏しい三頭政治側を消耗させるのを望んだ。

しかし、リベラトレス側の高級将校や兵士の大部分が持久戦に痺れを切らして、野戦で決着を付ける以外に無い、と主張した。自軍の士気を見て、ブルトゥスと軍の指揮官は、味方の将兵が三頭政治側へ降伏し、海軍の優位性が失われる危険を恐れた。

プルタルコスは、ブルトゥスがイオニア海の海戦で三頭政治側のドミティウス・カルウィヌスが敗北した知らせを受け取っていなかった、と記している[16]

そして、東方の同盟国の部隊がリベラトレス側から離脱し始めたため、ブルトゥスは三頭政治側と決戦に挑む決意を固め、フィリッピでの第2戦は紀元前42年10月23日の午後に開始された。


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