フィリッピの戦い
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三頭政治側はリベラトレス討伐を決定すると、レピドゥスをイタリアへ残して、残る2人(アントニウス、オクタウィアヌス)は合計28個のローマ軍団と共にマケドニアへと出征した[7]

三頭政治側はガイウス・ノルバヌス・フラックスとルキウス・デキディウス・サクサ(英語版)が指揮する8個軍団が先発、ローマからアドリア海を越えてマケドニアへ渡り、リベラトレス軍を探るためエグナティア街道に沿って進軍した。

ノルバヌスとデキディウスはマケドニア東部のフィリッピ(現:ピリッポイ)を通り過ぎて、狭隘な山岳地帯へ強固な陣営地を構えた。リベラトレス側はノルバヌスやデキディウスが率いる三頭政治側の軍を側面から包囲することに成功し、ノルバヌスらに自陣営を放棄、フィリッピの西方へと撤退させた[8]

後続部隊を率いたアントニウスは先行していたノルバヌスらの軍に追いついた一方、オクタウィアヌスは病気に罹り、デュッラキウム(現:ドゥラス)で一時的な滞在を余儀なくされた(オクタウィアヌスはこの戦いの間、病に悩まされ続けた)。両軍の進軍路(三頭政治側■、リベラトレス側■)

三頭政治側は主力となる軍団をマケドニアへ渡らせることに成功した。一方、リベラトレス側は、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスが率いる130隻の巨大船団を擁する海軍による哨戒で制海権を握ることにより、三頭政治側のマケドニア遠征軍とイタリア本土との連絡を困難にさせた。

リベラトレス側は決戦を行うことを望まずに、むしろ海軍の優位性を活かした立場を利用し、イタリア本土からの物資の供給を遮断して、三頭政治側の本軍を孤立させる作戦を取った。

また、三頭政治側がアドリア海を渡る数ヶ月前から将来の決戦に備えて、リベラトレスは軍費を徴収するためにギリシアの都市を収奪、ローマの東方属州へも課税した。同地区よりローマ軍団を集め、同盟国からの友軍と共にトラキアへと集結させた。

ブルトゥスとカッシウスはフィリッピから西へ約3.5キロの両側を高地地帯に挟まれたエグナティア街道沿いの地点に陣営地を構えた。リベラトレス側の陣営地は南側を渡ることが不可能な沼沢地、北側を周囲を高い丘状地帯が連なる天然の要害に囲まれており、リベラトレス側は更に濠や防御柵を設置して守りを固めた。

そして、エグナティア街道の南側にカッシウス、北側にブルトゥスが陣営地を構え、暫くしてリベラトレス側の陣営地の近くまで到着した三頭政治側のアントニウスとは南側でカッシウスが、オクタウィアヌスとは北側でブルトゥスがそれぞれ対峙した[8]
両軍の戦力比較

三頭政治側は19個の軍団(レギオ)を擁しており(他の軍団はイタリア本土へ残された)、文献に記載のある軍団は第4軍団の1つだけであるが、フィリッピの戦いの後に入植に参加した第6第7第8第10、第12、第13、第16、第18、第19、第30の各軍団も三頭政治側として参戦したと考えられている。

アッピアノスによると、三頭政治側の軍団兵はほとんど定員を満たしていたと伝わっている。三頭政治側は騎兵部隊の戦力が大きかった(アントニウスが20,000、オクタウィアヌスが13,000)[9]

リベラトレス軍は17個軍団を擁し、ブルトゥスが8個、カッシウスが9個の軍団を指揮していた。また、これとは別にグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスが指揮を取る海軍兵力として2個軍団があった。

但し、リベラトレス側の軍団は定員を満たしていたのは僅かに2つだけであったとされる。そのため、同盟関係にあったプトレマイオス朝パルティアなどの東方の諸国家から援軍を得て、強化した。アッピアノスはリベラトレス側の歩兵戦力は約80,000であったと記している。

リベラトレス軍の騎兵部隊は東方諸国家からの同盟軍5,000を含む総数17,000であった。リベラトレス軍には東方属州へ駐屯していたカエサルの時代より従っていた軍団(恐らくは第27、第31、第33、第36、第37の各軍団)が属していた。これらの軍団兵のほとんどがカエサル時代からの歴戦の兵士であったと考えられ、第27、第31、第33、第37の各軍団はそれに該当する。尚、第36軍団はグナエウス・ポンペイウスが元々は率いていた軍団兵から構成され、ファルサルスの戦い紀元前48年)の後にカエサルの軍団に加わった。

そのため、カエサルの相続人と称する三頭政治側と戦うリベラトレス側の軍団にカエサルを暗殺したカッシウスらへ忠誠心を持たせるのは微妙な問題であった(なお、この時期のオクタウィアヌスは自らを「オクタウィアヌス」と称さずに、単に「ガイウス・ユリウス・カエサル」と呼ばせていた点は重要である)。

カッシウスは自らの軍団兵から忠誠心を得るため、「我々はカエサルの私兵として存在しているのではない」や「我々は共和国の兵士なのだ」などの強い口調で鼓舞したり、軍団兵1人につき1,500デナリウスケントゥリオ1人に7,500デナリウスを渡すなどの、あらゆる方法を試みた。

古代の資料には両軍の総兵力数の情報は無いが、両軍共にほぼ互角の兵力であったとされる(現代の歴史家は両軍共に約100,000の兵力がいたと推定している)。
戦局の推移
第1戦(10月3日)

アントニウス軍は再三の戦いを仕掛けていたが、リベラトレス側は防御を固めて陣営地の優位性を活かし、挑発に乗ることは無かった。そのため、アントニウスは密かに南の沼沢地を横切ってリベラトレス軍の陣営地への攻撃を試みて、大変な苦労の結果、アントニウス軍は沼沢地を抜けることに成功した。最終的にカッシウスによってアントニウス軍の動きは見破られたが、両軍が対峙する形となり、膠着状態にあった戦局が動き出すきっかけとなった。

紀元前42年10月3日、フィリッピでの最初の戦いが行われた。1度目の戦い(10月3日)の両軍の展開図.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  三頭政治側  リベラトレス側

カッシウスの陣営地と沼沢地の間の防御施設への攻撃を目的として、アントニウス軍とカッシウス軍が交戦した。

アントニウス軍によるカッシウス軍への攻撃を受けて、ブルトゥス軍はもう片方の三頭政治側のオクタウィアヌス軍へ攻撃命令を待たずに急襲した。

ブルトゥス軍による急襲は完全に成功し、ブルトゥス軍のマルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌスが率いる部隊によってオクタウィアヌス軍は敗走して、メッサッラ・コルウィヌスの部隊はオクタウィアヌス軍の陣営地を奪取した。オクタウィアヌス軍の3個軍団は明らかな崩壊状態となり、オクタウィアヌスは陣営地から離れていたため発見できなかったが、オクタウィアヌスの椅子を破壊し[10][11]、オクタウィアヌス軍から3本のアクィラ(鷲章)と多くの軍旗を奪い取った[12]

なお、多くの歴史家は「オクタウィアヌスがその日のことを夢で知っていたため、難を逃れた」と伝え[11][13]ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)はオクタウィアヌスは沼沢地へ逃れたから無事であった、としている。

エグナティア街道のもう一方では、アントニウス軍がカッシウス軍が設営した防御柵を破壊し、防御用の水路(掘割)を埋めたことでカッシウス軍の防御施設を攻撃できたため、アントニウス軍は難なくカッシウス軍の陣営地を占拠した[12]

また、南へと進んでいたカッシウス軍の一部隊は本陣へ戻ろうと試みたが、アントニウス軍の部隊に撃破された。

結果的に両軍の戦いは痛み分けに終わった、カッシウス軍が約9,000名を失ったのに対して、オクタウィアヌス軍は18,000名もの死傷者を出すに至った[14]

しかしながら、戦線が拡大して、激しい砂塵が起こっていたため戦局の判断が困難であったため、両軍の間の戦局動向を把握することが出来なかった。カッシウスは、丘の頂上へと退いたが、ブルトゥス軍の動向を掴むには至らなかった[13]

カッシウスはブルトゥスが大敗を喫したものと判断したため、カッシウスはピンダルスという名の解放奴隷に自らを殺させた。ブルトゥスはカッシウスの遺体と対面した時に、カッシウスを「最後のローマ人」と呼び、その死を悼んだ[13][15]。しかし、軍隊の士気が低下することを恐れて、ブルトゥスはカッシウスの公葬を避けた。

ブルトゥス軍は強欲さによって、占領したオクタウィアヌス軍の陣営地での略奪に終始したため、オクタウィアヌス軍に戦線再構築の時間的余裕を与え、ブルトゥス軍はオクタウィアヌス軍に対する決定的な勝利を生かすことが出来なかった。
第2戦(10月23日)

フィリッピでの第1戦が行われていたのと同日、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスが率いるリベラトレス側の海軍は、三頭政治側のグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスが率いた2個軍団と輸送用の船団を哨戒中に撃滅することに成功した。

この結果、リベラトレス側は制海権を保った上、海上を経由して物資を無尽蔵に受けられる体制が構築できているのに対して、三頭政治側は主たる食糧の供与先であったマケドニアとテッサリアからの供給余地が乏しく、兵站の確保に窮しかねない戦略的な危機に陥ることとなった[16]


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