フィリッピの戦い
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しかしながら、一方のリベラトレス側は、カルラエの戦いなどに従軍し一応の軍事的な経験を持っていたカッシウス[17][18] が第1戦で自殺し、残ったマルクス・ブルトゥスに軍事経験が少なかったことから、良い戦略も持たずに無為に過ごしていた。

ブルトゥスは第1戦目の後に配下の兵士たちへ各1,000デナリウスの報酬を渡したにも関わらず、リベラトレス側の兵士および同盟国の兵士から敬意を得ることは出来なかった。

第1戦目から3週間の内に、ブルトゥス軍の陣営地の南側に当たるカッシウスが第1戦で陣営地を構えていた丘陵の近郊に、ブルトゥス軍が全く備えを置いていなかったため、同地へのアントニウス軍による進軍を許した。2度目の戦い(10月23日)の両軍の展開図  三頭政治側  リベラトレス側

アントニウス軍の動きに対して、ブルトゥスは側面からの攻撃を防ぐため、エグナティア街道と平行して幾つかの防御柵を構築しながら、南側へ戦線を広げることを強いられた。

とは言え、ブルトゥス側は陣営地を戦術的に有利な高地に置き、ドミティウス・アヘノバルブス率いる海軍との連絡も保っており、未だ優位であったことから、ブルトゥスは優勢な海軍の勢力を活用し、正面からの戦闘による決着をなるべく避けて、物資の乏しい三頭政治側を消耗させるのを望んだ。

しかし、リベラトレス側の高級将校や兵士の大部分が持久戦に痺れを切らして、野戦で決着を付ける以外に無い、と主張した。自軍の士気を見て、ブルトゥスと軍の指揮官は、味方の将兵が三頭政治側へ降伏し、海軍の優位性が失われる危険を恐れた。

プルタルコスは、ブルトゥスがイオニア海の海戦で三頭政治側のドミティウス・カルウィヌスが敗北した知らせを受け取っていなかった、と記している[16]

そして、東方の同盟国の部隊がリベラトレス側から離脱し始めたため、ブルトゥスは三頭政治側と決戦に挑む決意を固め、フィリッピでの第2戦は紀元前42年10月23日の午後に開始された。

ブルトゥスは「私は現在のように逐一指示しているのとは違い、この戦いでは命令することは無く、大ポンペイウス(グナエウス・ポンペイウス)のように戦争を進めるだろう」と語った 。

フィリッピの第2戦目は、特別な戦術も戦略も無く、矢やピルム(投槍)が使われることも無く、剣と剣による両軍のベテラン兵士主体のローマ軍団が激突する潰し合いとなって、両軍共に大変な損害が生じた。

結果として、ブルトゥス軍の攻撃は三頭政治側に撃退され、リベラトレス軍の戦線は崩壊し兵士らは散り散りになった。敗走するリベラトレス軍が自軍の防衛陣地へ到着する前に、オクタウィアヌス軍の兵士によってブルトゥス軍の陣営地は占拠された。

ブルトゥス軍は劣勢を覆すことが出来ず、三頭政治側に完敗した。ブルトゥスは4個軍団だけを率いて近くの丘へ退いたが、三頭政治側の掃討戦により降伏か捕虜が避けられなくなったため、ブルトゥスは自ら命を絶った[13][19]

フィリッピの2回目の戦闘は、上述したような近接戦主体であったため、両軍共に相当な大きな死傷者が発生したが、両軍の死傷者の数は伝わっていない。
戦後紀元前39年頃の地中海・オリエントの勢力図  アントニウス勢力圏  オクタウィアヌス勢力圏  マルクス・レピドゥス勢力圏  セクストゥス・ポンペイウス勢力圏

プルタルコスは、アントニウスがブルトゥスの遺体に敬意の証として紫色のマントを掛けたと伝えている[19]。アントニウスはブルトゥスが友人であったこと以外に、ブルトゥスがカエサル暗殺計画へ加わった際にアントニウスの命を助けるよう要求していたのを覚えていたことが理由であった。スエトニウスは「オクタウィアヌスがブルトゥスの首級をローマへ届けて、カエサルの像の下に晒した」と伝えるが[20]、プルタルコスはアントニウスによってブルトゥスの遺骨が母セルウィリアの元へ届けられたと「英雄伝」に記している[21]

リベラトレス側では、クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスの息子がアントニウスの弟ガイウス・アントニウス(英語版)を殺害した件の報復でアントニウスによって殺害され[22]マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスの息子マルクスやルキウス・リキニウス・ルクッルスの息子マルクス、後にオクタウィアヌスの妻となるリウィア・ドルシッラの父マルクス・リウィウス・ドルスス・クラウディアヌス(英語版)が戦死するなど、多くの若い有力者がこの戦いで命を落とした[23][24]

ルキウス・カルプルニウス・ビブルスやマルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌスなどのリベラトレス側で逃れた人物は、恐らくは若く冷酷なオクタウィアヌスに対処されるのを望まなかったため、アントニウスへ降伏した[Note 2]

リベラトレス軍の残存兵士の内、約14,000名は三頭政治側の軍隊へ編入されたが、古参の兵士の多くがイタリア本土へ戻されて軍より除隊した。なお、古参兵士の一部はローマの植民都市となったフィリッピ(コロニア・ウィクトリクス・ピリッペンシウム、ラテン語: Colonia Victrix Philippensium)の町へ入植した。

オクタウィアヌスはこの戦いで退役した多くのベテラン兵士を入植させるという複雑な問題へ対処するためイタリア本土へ戻り、アントニウスはブルトゥスらが支配していた東方地区の治安維持のために同地へ留まった[26][Note 3]

セクストゥス・ポンペイウスシチリアを勢力圏に置き、ドミティウス・アヘノバルブスが海軍を握っていたが、リベラトレス側の抵抗はフィリッピでの敗北で終結した。なお、セクストゥスとドミティウスは連携しながら三頭政治側と争った[28] が、紀元前40年にドミティウスはガイウス・アシニウス・ポッリオの仲介によりアントニウスに降り[29]、セクストゥスは紀元前39年にオクタウィアヌスとミセヌムで停戦協定を結んだ[30]

フィリッピの戦いで勝利に最も貢献したアントニウスは生涯のキャリアで頂点を迎えた、第二回三頭政治の一頭として、かつローマで最も有名な将軍となり、アントニウスの人生はこの時に決定付けられた。
文献・著作からの引用『ブルトゥスとカエサルの亡霊』、Brutus and the Ghost of Caesar、Edward Scrivenによる1802年の作品

プルタルコスは「英雄伝」の中で、「フィリッピの戦いの数ヶ月前のある夜、ブルトゥスは目の前に巨大な亡霊が現れたため、ブルトゥスが「何のようだ?」と尋ねると、亡霊は「私はブルトゥス、お前の悪霊だ。フィリッピで会うことになるだろう」と答えた。ブルトゥスは戦闘の前夜に再び亡霊とあった」と記している[10][31]

この逸話はイングランドの劇作家ウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の作中で最も有名な場面の一つである[32]

カッシウス・ディオはブルトゥスがギリシアの悲劇より引用した最期の言葉を以下のように伝えている。「不運で高潔な人よ、私の名前は本当の人として崇拝されていたのに、今は運命の奴隷になってしまった」[33]

オクタウィアヌスは後に自著「レス・ゲスタエ」(Res Gestae)の中でフィリッピの戦いについて、「私は父(ユリウス・カエサル)の殺害者らを国外へ追放して裁判の場でその犯罪を断罪した。然る後に、共和国に対して彼らが起こした戦闘で2度戦い、勝利を収めた」と自ら振り返っている[34]
Notes^ カエサル暗殺後にカッシウスらはマケドニアを実効支配していたが、紀元前43年2月に元老院より正式にマケドニア属州総督の割り当てを受けた[2][3]
^ 降服したブルトゥス軍の将校に対するオクタウィアヌスの冷酷な対応により、ブルトゥス軍の将校はアントニウスに敬意を表した一方、オクタウィアヌスへは痛烈な罵倒を浴びせたとの事例をスエトニウスは紹介している。


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