フィデル・カストロ
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キューバのアンゴラ派兵の目的は米中の影響力排除でもあった[9]

1979年9月3日の演説でフィデルは中国が中越戦争ベトナムを攻撃してアフリカと南米では反共同盟であるサファリ・クラブ(英語版)を主導するエジプトアンワル・アッ=サーダート政権やコンドル作戦を主導するチリのアウグスト・ピノチェト政権なども支援していることを批判した[10]

しかし、冷戦が緩和した1987年に中国とキューバは関係を正常化し[11]、キューバと中国との関係は友好的になり、中国はキューバにとって軍事面・資金面において有力な援助国となっている。中国はキューバにとって第2の貿易相手国[12] であり、アメリカの対キューバ禁輸措置が続く中で、キューバにとって中国は食料・経済支援などを頼れる欠かせない国である[13]。フィデルは中国からの援助を評して「今、新しい動力が現われた。それは中国とベネズエラだ」と述べ、中国、ベネズエラとの通商関係に謝意を表した。一方、四川大地震で中国が甚大な被害を受けた際、キューバの医療チームの活動に対して国家主席胡錦濤は「中国の党、政府、人民は永遠にこれ(医療チームの活動)を心に刻む」と感謝の意を表した[14]2008年に起きたハリケーンの際には、キューバ政府はアメリカからの人道支援は断っているが、中国政府代表団はキューバに対する貿易債務繰り延べに加えて、港湾・病院などの近代化支援やハリケーン被害の復興支援などに総額7000万ドルの支援を行うと約束した。このように、冷戦終結後のキューバは中国との関係を良好にしている。

その一方で、フィデルは中国が領有権を主張して対立している台湾中華民国)についても、同じ小国として連帯感を強く持っており、2003年8月15日台湾の副総統呂秀蓮パラグアイで会見した際、台湾の境遇に強い関心を示したり[15]2010年7月12日、キューバ国営テレビのインタビューで「台湾は国連に加盟する権利がある」と明らかにしていた[16]
ヨーロッパ諸国・カナダ

キューバ革命に成功した当時、キューバの旧宗主国であり、伝統的に非常に絆が強いスペインフランシスコ・フランコによるファシスト政権であったが、左右正反対であるキューバとは国交を維持した(なお、スペイン内戦で共和国側を支持したメキシコとの間では、スペインは国交断絶状態を続けた)。この背景には、スペインにとってキューバは米国に奪われた土地という歴史的事情があり、その米国の支配からキューバを解放したフィデルに対する敬意があったと言える。なお、フィデルの父アンヘルもフランコも共にスペインのガリシア出身である。

1976年に、当時のカナダ首相ピエール・トルドーはアメリカによる経済封鎖にもかかわらず西側諸国の政治的指導者として初のキューバ公式訪問を行い、フィデルと抱擁を交わした。トルドーはカナダからの支援として400万ドルを提供し、1,000万ドルの融資を行った。トルドーはそのスピーチで「フィデル・カストロ国家評議会議長の長命と、キューバ、カナダ両国民の友情を祈る」と話した。

トルドーとフィデルの友情はその後も続き、トルドーは退任後も1980年代から1990年代にかけてキューバを数度訪れている。フィデルは2000年のトルドー死去時、葬儀に参列するためモントリオールを訪れている。
引退と晩年

2000年代に入り高齢になり体力が衰え、長時間の演説が徐々に短くなり、倒れこむ場面も見られるようになった。

2006年7月31日、フィデルは「腸に急性の問題が発生し、出血が続いているため外科手術を受けた」ことを明らかにし、そして「数週間程度、ラウルに権限を暫定移譲する」との声明を発表した。しかし、その後回復が思わしくなく、暫定移譲期間は長期化していった。2008年2月19日、フィデルは共産党の機関紙グランマにおいて、国家評議会議長と軍最高司令官を引退する意向を示した。2月24日、ハバナの国際会議場で開催された人民権力全国会議においてフィデルは国家評議会議長兼閣僚評議会議長を退任し、後継にはラウルが就任した。

国家元首引退後は論評を執筆して党の機関紙に投稿する生活を送っている。後継のラウルが「重要事項はフィデルへ助言を求める」と表明していることから、時々ラウルからの求めに応じて助言もしているようである。その後、2008年12月16日を最後に翌年1月18日までの1ヶ月論評が掲載されなかったことからフィデルの病状悪化説が浮上。これに対してベネズエラのウゴ・チャベス大統領は健康悪化説を否定した。2009年2月19日、フィデルがハバナでチリの大統領ミシェル・バチェレと会見した際の写真をチリ政府が発表し、AP通信経由で公開されている[17]。同年8月24日のBBCワールドニュースで、1年振りに地元テレビにフィデルの映像が流れたことを報じた[18]

2010年7月7日、国立の科学研究施設を訪問し、引退後初めて公の場に姿を表した。キューバのブログ「革命」には、施設訪問したフィデルについて「痩せていたが健康そうだった」と記されていた。8月7日には議会で演説を行ない、健康状態がかなり良くなっているとの推測もあった[19]

2011年4月19日、第6回キューバ共産党大会において、フィデルは党第一書記を正式に辞任した[20]。後任には2006年より代行を務めていたラウルが選出された。第一書記辞任により、キューバ革命以来、およそ50年にわたり務めた全公職から退き、政界から引退することとなった[21]

2013年2月3日に行われた人民権力全国会議の選挙に際してフィデルはハバナ市内の投票所で投票し、「久しぶりに公の場に姿を見せた」と報じられた[22]。なお、この選挙でもフィデルは候補者となっている。

2016年4月19日、第7回キューバ共産党大会の閉会式にジャージ姿で出席して10分間演説し、「私がここで話すのはおそらく最後だ」と述べるとともに食糧や水の問題などを「次世代が解決すべき課題」として挙げた[23]。演説の最後には「まもなく、私もほかの人たちと同じように、その時が来るだろう」と述べていた[23]

2016年8月13日、満90歳の誕生日を迎え、ハバナ市内の劇場でおこなわれた記念イベントに出席した[24]。同日付で党機関誌「グランマ」に寄稿した文章では、5月のバラク・オバマの広島訪問について、原爆投下への謝罪がなかったことを批判した[24]

2016年9月22日、フィデルは自らの私邸に於いてキューバを公式訪問した日本安倍晋三首相と会談し、日本・キューバの二国間関係発展など幅広い議論を取り交わした[25]。これがフィデルにとってG7首脳との最後の会見となった。なお外国首脳との最後の会見は11月15日に行われたベトナム国家主席チャン・ダイ・クアンとの会見が最後となった[26]
死と葬儀詳細は「en:Death and state funeral of Fidel Castro」を参照サンティアーゴ・デ・クーバへと運ばれるフィデルの遺骨フィデルの墓

映像外部リンク
Raul Castro's announcement on Fidel Castro's death - YouTube


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