フィデル・カストロ
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2009年2月19日、フィデルがハバナでチリの大統領ミシェル・バチェレと会見した際の写真をチリ政府が発表し、AP通信経由で公開されている[17]。同年8月24日のBBCワールドニュースで、1年振りに地元テレビにフィデルの映像が流れたことを報じた[18]

2010年7月7日、国立の科学研究施設を訪問し、引退後初めて公の場に姿を表した。キューバのブログ「革命」には、施設訪問したフィデルについて「痩せていたが健康そうだった」と記されていた。8月7日には議会で演説を行ない、健康状態がかなり良くなっているとの推測もあった[19]

2011年4月19日、第6回キューバ共産党大会において、フィデルは党第一書記を正式に辞任した[20]。後任には2006年より代行を務めていたラウルが選出された。第一書記辞任により、キューバ革命以来、およそ50年にわたり務めた全公職から退き、政界から引退することとなった[21]

2013年2月3日に行われた人民権力全国会議の選挙に際してフィデルはハバナ市内の投票所で投票し、「久しぶりに公の場に姿を見せた」と報じられた[22]。なお、この選挙でもフィデルは候補者となっている。

2016年4月19日、第7回キューバ共産党大会の閉会式にジャージ姿で出席して10分間演説し、「私がここで話すのはおそらく最後だ」と述べるとともに食糧や水の問題などを「次世代が解決すべき課題」として挙げた[23]。演説の最後には「まもなく、私もほかの人たちと同じように、その時が来るだろう」と述べていた[23]

2016年8月13日、満90歳の誕生日を迎え、ハバナ市内の劇場でおこなわれた記念イベントに出席した[24]。同日付で党機関誌「グランマ」に寄稿した文章では、5月のバラク・オバマの広島訪問について、原爆投下への謝罪がなかったことを批判した[24]

2016年9月22日、フィデルは自らの私邸に於いてキューバを公式訪問した日本安倍晋三首相と会談し、日本・キューバの二国間関係発展など幅広い議論を取り交わした[25]。これがフィデルにとってG7首脳との最後の会見となった。なお外国首脳との最後の会見は11月15日に行われたベトナム国家主席チャン・ダイ・クアンとの会見が最後となった[26]
死と葬儀詳細は「en:Death and state funeral of Fidel Castro」を参照サンティアーゴ・デ・クーバへと運ばれるフィデルの遺骨フィデルの墓

映像外部リンク
Raul Castro's announcement on Fidel Castro's death - YouTube
Fidel Castro' state funeral - YouTube

2016年11月25日、弟のラウル・カストロが国営テレビを通じて「キューバ革命の最高司令官が今夜(25日夜)午後10時29分(日本時間26日午後12時29分)に死去した」と発表した[1][27]。90歳没。遺言に基づいて遺体は火葬され、12月4日革命発祥の地サンティアーゴ・デ・クーバ国葬が行われた後、同地のサンタ・エフィヘニア墓地に埋葬されると発表された[28]。社会主義国家の指導者の遺体が永久保存の上で展示される例が複数存在する中、このような措置は珍しいことである[29]

遺言について「自身の死後、さまざまな機関や広場、公園、道路などの公共施設に自分の名前や肖像は使用されたくない」と主張し、その態度は人生最期のときまで一貫していた。また「記念碑や像といった同様の形態のもの」もあってはならないと述べていた[30]

2016年12月4日、フィデルの遺言通り、午前中に遺骨がサンタ・エフィヘニア墓地の墓に埋葬された。自ら墓に兄の遺骨を納めたラウルは「フィデルの銅像や肖像画を公共の場に飾るのを禁止する法案を次回の国会で提案する」と述べ[31]、27日に開催された国会で上程・可決された[32]。ただしフィデルを題材にした映画や著作や音楽などの芸術作品の制作や、各地の施設等に既に飾られている写真については規制対象とはしなかった[32]。アメリカに亡命した亡命キューバ人の一部は現地で歓喜のパレードを行った。
一般的なイメージとエピソード

長年の間事実上の独裁体制を敷いてきていた上、経済政策面などでは決して評価が高いとは言えない面はあるが、個人崇拝を嫌い、私利私欲に安易に振り回されない強固な信念の持ち主として、今なお賛否両論が分かれる人物である[要出典]。
暗殺計画詳細は「フィデル・カストロ暗殺未遂事件」を参照

2006年に国家評議会議長兼閣僚評議会議長の権限を暫定的にラウルに移譲するまでに暗殺を638回計画されたといわれ、命を狙われた回数が最も多い人物としてギネスブックへの掲載が決まっている[33][34]。そのうち大半はCIAなどによるフィデル暗殺計画で、147回計画されたといわれる。革命後にアメリカのマフィアが経営していたカジノを追放したことにより、マイヤー・ランスキーなどのマフィアからも暗殺の標的となる。また1960年にCIAがマフィアに15万ドルでカストロの暗殺を依頼していたことが2007年の文書公開で判った[35][36]

1979年10月にニューヨークで行われる国連総会に向かう航空機内にて、アメリカ人ジャーナリストのジョン・アルパートの「ニューヨークにはあなたを殺したいと思っている人がたくさんいますが?」という問いかけにフィデルは「人は死ぬときは死ぬんだよ。それが運命だ」と答え、「あなたはいつも防弾チョッキを着ていると聞いていますが」という問いかけには、フィデルはシャツのボタンを外し、肌を露出させ防弾チョッキを着ていないことを見せて「着ていないよ。モラルってチョッキは着てるけどね。これがあれば強い」と答えている[37]
共産主義指導者としての批評革命広場(ハバナ)にあるホセ・マルティ記念碑の前で演説するフィデル

2006年、アメリカのワシントン・ポスト紙の付録誌「パレード」の『世界最悪の独裁者』という特集記事で、第15位に選出されるなど、アメリカやラテンアメリカ諸国においては「社会主義かぶれの独裁者」として批判を受けることも多いものの、「ラテンアメリカを植民地のように扱うアメリカにかたくなに抵抗し続けるヒーロー的な存在」として、容共的な人々のみならず反共主義者の間においても心理的な支持者が多いと言われている。

特にベネズエラウゴ・チャベスは、フィデルを師匠のように敬愛していた他、ボリビアエボ・モラレス大統領とも友好関係にある。


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