フィデル・カストロ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

中国はキューバにとって第2の貿易相手国[12] であり、アメリカの対キューバ禁輸措置が続く中で、キューバにとって中国は食料・経済支援などを頼れる欠かせない国である[13]。フィデルは中国からの援助を評して「今、新しい動力が現われた。それは中国とベネズエラだ」と述べ、中国、ベネズエラとの通商関係に謝意を表した。一方、四川大地震で中国が甚大な被害を受けた際、キューバの医療チームの活動に対して国家主席胡錦濤は「中国の党、政府、人民は永遠にこれ(医療チームの活動)を心に刻む」と感謝の意を表した[14]2008年に起きたハリケーンの際には、キューバ政府はアメリカからの人道支援は断っているが、中国政府代表団はキューバに対する貿易債務繰り延べに加えて、港湾・病院などの近代化支援やハリケーン被害の復興支援などに総額7000万ドルの支援を行うと約束した。このように、冷戦終結後のキューバは中国との関係を良好にしている。

その一方で、フィデルは中国が領有権を主張して対立している台湾中華民国)についても、同じ小国として連帯感を強く持っており、2003年8月15日台湾の副総統呂秀蓮パラグアイで会見した際、台湾の境遇に強い関心を示したり[15]2010年7月12日、キューバ国営テレビのインタビューで「台湾は国連に加盟する権利がある」と明らかにしていた[16]
ヨーロッパ諸国・カナダ

キューバ革命に成功した当時、キューバの旧宗主国であり、伝統的に非常に絆が強いスペインフランシスコ・フランコによるファシスト政権であったが、左右正反対であるキューバとは国交を維持した(なお、スペイン内戦で共和国側を支持したメキシコとの間では、スペインは国交断絶状態を続けた)。この背景には、スペインにとってキューバは米国に奪われた土地という歴史的事情があり、その米国の支配からキューバを解放したフィデルに対する敬意があったと言える。なお、フィデルの父アンヘルもフランコも共にスペインのガリシア出身である。

1976年に、当時のカナダ首相ピエール・トルドーはアメリカによる経済封鎖にもかかわらず西側諸国の政治的指導者として初のキューバ公式訪問を行い、フィデルと抱擁を交わした。トルドーはカナダからの支援として400万ドルを提供し、1,000万ドルの融資を行った。トルドーはそのスピーチで「フィデル・カストロ国家評議会議長の長命と、キューバ、カナダ両国民の友情を祈る」と話した。

トルドーとフィデルの友情はその後も続き、トルドーは退任後も1980年代から1990年代にかけてキューバを数度訪れている。フィデルは2000年のトルドー死去時、葬儀に参列するためモントリオールを訪れている。
引退と晩年

2000年代に入り高齢になり体力が衰え、長時間の演説が徐々に短くなり、倒れこむ場面も見られるようになった。

2006年7月31日、フィデルは「腸に急性の問題が発生し、出血が続いているため外科手術を受けた」ことを明らかにし、そして「数週間程度、ラウルに権限を暫定移譲する」との声明を発表した。しかし、その後回復が思わしくなく、暫定移譲期間は長期化していった。2008年2月19日、フィデルは共産党の機関紙グランマにおいて、国家評議会議長と軍最高司令官を引退する意向を示した。2月24日、ハバナの国際会議場で開催された人民権力全国会議においてフィデルは国家評議会議長兼閣僚評議会議長を退任し、後継にはラウルが就任した。

国家元首引退後は論評を執筆して党の機関紙に投稿する生活を送っている。後継のラウルが「重要事項はフィデルへ助言を求める」と表明していることから、時々ラウルからの求めに応じて助言もしているようである。その後、2008年12月16日を最後に翌年1月18日までの1ヶ月論評が掲載されなかったことからフィデルの病状悪化説が浮上。これに対してベネズエラのウゴ・チャベス大統領は健康悪化説を否定した。2009年2月19日、フィデルがハバナでチリの大統領ミシェル・バチェレと会見した際の写真をチリ政府が発表し、AP通信経由で公開されている[17]。同年8月24日のBBCワールドニュースで、1年振りに地元テレビにフィデルの映像が流れたことを報じた[18]

2010年7月7日、国立の科学研究施設を訪問し、引退後初めて公の場に姿を表した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef