フィデリオ
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メトでは主にワーグナー歌手が主役を務めた。

歌劇場と並んで『フィデリオ』を盛んに上演しているのがザルツブルク音楽祭である。ベートーヴェン没後100年の1927年フランツ・シャルクの指揮によって初めて取り上げられて以来、戦前期にはリヒャルト・シュトラウスクレメンス・クラウス、トスカニーニ、ハンス・クナッパーツブッシュが、戦後にはヴィルヘルム・フルトヴェングラーヘルベルト・フォン・カラヤンカール・ベームロリン・マゼールゲオルク・ショルティレナード・バーンスタイン ら名指揮者・大指揮者が指揮をしている。

元来台詞つきのオペラであるが、台詞をカットした上演もしばしば行われている。古くはトスカニーニとNBC交響楽団による上演(1944年)、最近ではサイモン・ラトルによる上演がある。
日本

日本初演は、通説では1935年6月5日近衛秀麿指揮の新交響楽団第157回定期演奏会に於ける演奏会形式による上演が初演とされているが[1]、それより先の1927年3月26日(ベートーヴェン没後100年の当日)に、JOAKの放送歌劇で不完全な形ながらも上演されている。その後、1943年12月27日には藤原歌劇団により日本語による舞台初演が行われている(指揮はマンフレート・グルリット[2]。翌1944年2月27日に大阪・北野劇場で行われた同曲の上演が、戦前戦中通じての日本での最後のオペラ上演となった。

日本における『フィデリオ』上演のハイライトは、1963年10月のカール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団・合唱団による日生劇場?落しの上演である[3]ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウクリスタ・ルートヴィヒジェームズ・キングヨーゼフ・グラインドルグスタフ・ナイトリンガーらが出演し、後世に語り継がれる名舞台となった。
その他

上述の日生劇場も当てはまるが、『フィデリオ』は『アイーダ』と並んで?落しなどの記念公演でよく上演される。例えば、1955年11月15日に行われたウィーン国立歌劇場再建記念公演(指揮はカール・ベーム)がそうである。

一方で負の歴史もある。ドイツ第三帝国時代には「ドイツ精神を高揚するオペラ」として盛んに上演された。トーマス・マンは、内容的にはナチの思想に合致しないはずの『フィデリオ』が、ナチ支配下で盛んに上演された不思議さを友人に書き送っている。

また、『フィデリオ』は「自由を勝ち取る」「解放の」オペラ(Befreiungsoper)とも呼ばれる。オーストリアは第二次世界大戦でナチス・ドイツに併合された形で敗戦を迎える。ウィーン国立歌劇場は終戦直前の1945年3月、戦火に焼けた(爆撃した操縦士が駅と間違えたという説明がある)。同年5月8日には正式に終戦となるが、すぐに国立歌劇場の再建が始まる。終戦と共にイギリス、アメリカ、フランス、ソ連の4か国に占領されたオーストリアは、1955年10月26日にその4か国との平和条約調印により永世中立国として占領軍から「解放」されて「自由」になる(Osterreich ist frei!)。翌11月5日にその祝いをも兼ねて国立歌劇場は再開し、戦後初めてのオペラ上演となる。オーストリア共和国再建国・国立歌劇場再開の演目にベートーベンの「解放のオペラ」『フィデリオ』が選ばれたのである。4か国占領から「自由」になったウィーンに戦後再建されたウィーン国立歌劇場で、『フィデリオ』はカール・ベームの指揮によって上演された。
原典版での上演

第3初演版が出版されてからはもっぱらそれによる上演が行われていたが、早くも1850年頃にベドルジハ・スメタナらが第1初演版による上演を試みている(実現はしなかった)。その後、初演100年に当たる1905年リヒャルト・シュトラウスが第1初演版を上演した。第1初演版による上演の一大転機はジョン・エリオット・ガーディナーによる、ザルツブルク音楽祭での第1初演版をベースにした独自の版での上演である。ガーディナーの言によれば「現存する第1初演版の楽譜では不完全な部分が多々あるので、第2初演版なども参照して構成した」。なお、第1初演版と第3初演版の間に挟まれる第2初演版による上演もたまに行われており、2005年3月19日にはクリスティアン・アルミンク指揮の新日本フィルハーモニー交響楽団によって、第2初演版の日本初演が行われた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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