フィアット
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第二次世界大戦終戦直後の1945年12月にジョヴァンニ・アニェッリが死去した。その後はヴィットリオ・ヴァレッタが経営を行った。イタリアが戦災から復興し1950年代から1960年代にかけて「イタリアの奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げ、「アウトストラーダ」の拡張や自家用車の普及が進む中で「500」(ヌォーヴァ)や「600」などのヒットモデルを送り出した。
海外進出VAZ・2103 ラーダ・ノーヴァ
フィアット・124 ベルリーナ)

なお戦後も海外進出には積極的で、1950年スペインセアト(現在はフォルクスワーゲングループ)を設立した。1968年にはトルコトファシュを設立している。さらに南アメリカではアルゼンチンに進出した。他にも、1970年代にはブラジルでも生産を始めた。

また、イタリアが冷戦下において共産党を含む左翼陣営が勢力を持っていたこともあり、他の西側諸国が進出を躊躇していた東欧圏への進出を進めた。ソビエト連邦にプラントを輸出し、1970年アフトヴァースが、元イタリア共産党書記長のパルミーロ・トリアッティの名を冠したトリヤッチ市に建設された工場で「ジグリ(輸出名『ラーダ』)」の生産を開始した。

また、1930年代から生産していたポーランドポルスキ・フィアット)での生産を1965年より再開した。また、ユーゴスラビアザスタバ)にも進出した。
買収攻勢フェラーリのエンジンを搭載したディーノ

1966年にヴィットリオ・ヴァレッタから、ジョヴァンニ・アニェッリの孫のジャンニ・アニェッリ(ジャンニは愛称、本名は祖父と同じジョヴァンニ)が経営を引き継いだ。

ジャンニ・アニェッリが経営を引き継いだ1960年代後半から1980年代にかけては、「アウトビアンキ」(1968年)や「フェラーリ」(1969年)、「アバルト」(1971年)のほか、経営不振に陥っていた高級車メーカーの「ランチア」を1969年に買収した。さらに、国営化されて以降高コスト体制と品質問題による販売不振から経営苦境に陥っていた「アルファロメオ」を1986年に傘下に収めた。これにより、イタリアの自動車業界を事実上独占することになる。

さらに、オートバイ及び小型車メーカーの「ピアッジオ」を1964年に買収した。他にも、電装部品メーカーの「マニエッティ・マレリ」を1967年に買収した。また、商用車部門として「イヴェコ」を1975年に創立した。
経営不振パンダウーノブラーボ

1974年から1978年までフィアットは新型車の発表がなかった。これは、石油ショックや、その前後の左翼勢力による慢性的な労働争議により経営が不安定化したため。

しかしリビアの元首であるカダフィ大佐からの融資を受け入れた。その後1980年代始めに発売された、小型車「パンダ」と「ウーノ」の成功で窮地を脱した。これは、イタリアを代表するカロッツェリアイタルデザインの創始者ジウジアーロが設計を手掛けていた。他にも、1988年にはエンツォ・フェラーリ亡き後のフェラーリを完全子会社化した。その際、レイオフ(一時解雇)された従業員を呼び戻した。

しかし実際は、政府の要請で買収したアルファロメオの経営立て直しに多額の資金を費やさざるを得なかったことや、労働争議により経営状態は安定せず、イタリア政府による日本車の輸入規制や、レイオフした社員を政府による救済機関で引き取ってもらうなどの措置に助けられている状況であった。

1990年代は「ブラーボ/ブラーバ」とジョルジェット・ジウジアーロのデザインした初代プントがヨーロッパで大ヒットし、かろうじてその屋台骨を支えたが、その後も欧州連合発足後のイタリアにおける日本車の輸入規制撤廃による競争激化などを受けて、不安定な経営状況が続いた。
経営建て直しクロマグランデプント

2000年より自動車部門でゼネラルモーターズと提携していた。だが、2005年に経営状況が悪化したフィアットとの提携を進めることを躊躇したゼネラルモーターズ側が一方的に提携を解消した。これにより買収契約に関する違約金、15.5億ユーロをゼネラルモーターズから得た。

その後は、傘下のフェラーリおよびマセラティの経営を立て直したルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ会長、およびセルジオ・マルキオンネCEOのもとで、ゼネラルモーターズから得た違約金を原資に、経営の建て直しをはじめた。

その様な中でもアニェッリ一族による経営が基本にあり、2005年にはジャンニ・アニェッリの孫のジョン・エルカーンがフィアットの取締役に、その弟のラポ・エルカーンブランドマーケティング担当部長に就任した。このとき過去に使用していたロゴマークを復活させ、ロゴを入れたアパレルなどを展開し、世界的に大ヒットさせた。なお、長い歴史を持つフィアットは、社名ロゴと車両オーナメントの変更が多いことでも知られている[2]

また、2005年には経営建て直しの一環として、モンテゼーモロ会長の指揮のもと、相次いで3つの新型車を発表している。一つめには、「クロマ」の名で、導入が待たれていた新Dセグメントモデルを発表した。ボディはワゴン風の5ドアとなっている。二つめには、7月28日には「グランデプント」を発表した。これはプントの第3世代となる。全長は4mを超えており、「グランデ」の名のとおり大きいサイズだが、それ以上に大きな命運がこの車種に懸かっていることがうかがえる。2006年1月には同モデルがヨーロッパ市場における販売台数1位になるなど、フィアット建て直しのシンボルとなった。

三つめには、12月11日に小型クロスオーバーSUV「セディチ(16、4×4=16から)」を発表。これはスズキとの共同開発によるもの。この三つはいずれもジョルジェット・ジウジアーロとの協力でデザインされたものである。
復活ニューパンダ500

2004年にはニューパンダが、ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。これは1979年のデビュー以来根強い人気に支えられてきたパンダの後継である。

その後2005年11月には単月黒字を計上した。これは積極的な新車攻勢と、ラポ・エルカーンが主導するブランドイメージの復活を受けて販売台数が増加したため。その後も単月黒字を連続して達成。その他にもクロマの予想を上回る販売台数を得た他、グランデプントが2006年1月のヨーロッパ市場における販売台数1位になる。2006年第三四半期の販売台数も、ルノープジョーなどのライバルが前年比割れになる中、前年比増になるなど長年の低迷から完全に復活したとの評価を受けたと同時に自らも「復活宣言」を行った。

2007年にはグランデプントベースのセダン「リネア」、大失敗に終わったスティーロの後継車種「ブラーボ」(これまたかつての車名が復活)、往年のヒット作である「500」の新型をデビューさせ、同車種はヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。


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