ファーティマ朝
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ファーティマ朝は、北アフリカイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期にはイベリア半島アンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したのでイスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。 
歴史
建国

ファーティマ朝の淵源は、8世紀後半にイマーム派(シーア派の多数派)の第6代イマーム、ジャアファル・サーディクが亡くなった時、その長子イスマーイールのイマーム位継承を支持したグループが形成したイスマーイール派にある[1]。イスマーイールの死後はこの派からはイマームがいなくなり教勢が衰えたが、9世紀後半になって、イスマーイールの子ムハンマドは現世から姿を隠している隠れイマームであり、やがて救世主(マフディー)として再臨し、隠された真実を顕現するとする教理を主張するようになり、盛んに教宣活動を行った[2]

ファーティマ朝の始祖ウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー)はイスマーイールの子孫を称するイスマーイール派教宣運動の指導者で、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}899年には[要出典]従来の教理を改めて自らがイマームにしてマフディーであると宣言、活動を先鋭化していた[3][* 1]。ウバイドゥッラーの指示に従い、イスマーイール派に対する迫害の厳しい本拠地シリアから離れた北アフリカで活動していた教宣員のアブー=アブドゥッラー(アルハサン・ブン・ザカリヤーとも呼ばれる[2]。)は、現地のベルベル人の支持を集めて軍事力を組織化することに成功し、909年にイフリーキヤを中心に北アフリカ中部を支配するアグラブ朝を滅ぼした[5]。彼らはウバイドゥッラーをシリアから北アフリカに迎えカリフに推戴し、チュニジアの地でファーティマ朝が建国された[4]

ウバイドゥッラーは王朝建設の功労者アブー=アブドゥッラーを粛清してカリフによる独裁権力を確立、チュニスの南に新都マフディーヤ(「マフディーの都」の意)を建設してシーア派国家のファーティマ朝の支配を固めた[4]
ファーティマ朝の拡大「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (914年-915年)」および「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (919年-921年)」も参照

ウバイドゥッラーによる北アフリカへの進出は、そもそも西方で王朝の基盤を建設して東方バグダードにあるアッバース朝を滅ぼすための第一歩と位置付けられていたので、ファーティマ朝は王朝の初期から東方への進出をはかり、たびたびエジプトに遠征軍が派遣された[6]。この一連の遠征軍派遣はアレクサンドリアを一旦は占領するものの、いずれもアッバース朝の軍により退けられ成功を収められなかった[6]。このため、内政の強化とマグリブ方面への進出へと方針転換されたものの、モロッコでは後ウマイヤ朝の介入によりはかばかしい成果をあげられなかった[7]

一方で、北アフリカにおける勢力拡大も進められ、シチリア島まで勢力下におき、そこに海軍基地を設けた[7][* 2]。また、チュニジアではスンナ派が住民の多数を占めたので、ファーティマ朝によるイスマーイール派至上主義に対する反感が強まり、軍事費の増大を賄うためにイスラーム法によらない増税が行なわれ、民心がますます離反した[8]。アブー・アルカースィムの代にハワーリジュ派を中心とする組織的抵抗も起こったが、ファーティマ朝の勝利に終わって王朝の基盤は強化された[9]
エジプト支配「ファーティマ朝のエジプト征服」も参照

969年6月、第4代カリフのムイッズは、エジプトを支配するイフシード朝の内部崩壊に乗じ、シチリア出身の将軍ジャウハル率いる遠征軍をアレクサンドリアに派遣した[10]。ジャウハルはほとんど抵抗を受けることなくエジプトを支配下に収め、カリフのエジプト移転にあわせてエジプトの首府フスタートの北隣に新都カーヒラ(「勝利の都」)を建設した[11]。カイロは、アラビア語のアル=カーヒラ (ar:???????) が西欧の諸言語で訛った呼び名である[* 3]

エジプトにおけるファーティマ朝はイフシード朝の版図を踏襲し、エルサレムを含む南シリア地方まで支配を広げた[12]。さらにマッカ(メッカ)を含むアラビア半島西部のヒジャーズ地方をも保護下においた[13]。ムイッズと、その子アズィーズ(英語版)の治世がファーティマ朝の最盛期となった[9][14]アズハル・モスク

エジプトの征服にあたり、ファーティマ朝はイフシード朝以来の支配層の財産を保証し、強圧的なイスマーイール派の押し付けを避けて、多数派であるスンナ派との融和をはかった[15]。このため、ファーティマ朝は内部にこれまで以上のスンナ派勢力を抱えることになったが、978年にはムイッズの建設したアズハル・モスク(英語版)にイスマーイール派の最高教育機関となるアズハル学院が開講され[16]、カイロでイスマーイール派の教理を学んだ教宣員たちはファーティマ朝の版図に留まらず、イスラム世界の各地に散らばってイスマーイール派を布教した[17]。現在、シリアイランパキスタンインド西部で信仰されているイスマーイール派は、こうしたファーティマ朝の積極的な布教により広がったものである[17][18]

しかし、10世紀末のシリアで土着のスンナ派勢力による反ファーティマ朝の動きが広がり、ファーティマ朝支配から独立した[19]。一方、王朝発祥の地チュニジアでは、ファーティマ朝からマグリブ(西アラブ)・トリポリタニア(現リビア)方面の統治を委ねられていたズィール朝が事実上の独立を果たし、エジプト以西の領土が失われていた[20]。さらに、第6代カリフのハーキム1021年に謎の失踪を遂げて以降は実力のないカリフが続き、行政官庁の最高実力者である宰相(ワズィール)が実権を掌握した[21]

同じ11世紀にはシリア地方にセルジューク朝、ついで第1回十字軍が到来し、エルサレムをはじめとするシリア地方のほとんどがファーティマ朝の支配下から失われた[22]


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