ファヴェーラ
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1940年代の「Parque Proletario(労働者公園)」計画では、リオの貧困スラムが撤去され、住民たちは新しい公営住宅に建て変わるまでの間小屋などに仮住まいした[5]。しかし公営住宅は少量しか造られず、住宅改良工事のために更地になった場所に新たなファヴェーラが誕生しただけだった。

1955年レシフェ司教でリオデジャネイロ補佐司教エルデル・カマラは、連邦区の財政支援を受け、当時最大のファヴェーラであったPraia do Pintoに集合住宅群を建てるという計画「Cruzada Sao Sebastiao」(聖セバスティアヌスの十字軍、セバスティアヌスはリオの守護聖人)という名の計画を立ち上げた。この「十字軍運動」は、ファヴェーラ生活の悪徳を断ち切る意思のある者だけを新住宅に入居させ、彼らを受け入れられやすい市民とすることであった。

1970年代の軍事政権時代にも、貧者のための住宅計画という名目でファヴェーラ撤去計画は活発化した。しかし実際に起こったことはファヴェーラの解体と、その住民がより郊外の生活基盤のない土地へと移転させられた事態であった[5]。ファヴェーラの跡地には安い郊外住宅ができたが、そこからファヴェーラ旧住民に配分される利益では、旧住民らが新しい住宅に入るだけの収入とはならず、この計画は破綻していった[6]
ファヴェーラでの生活

ファヴェーラに住む人々はファヴェラドス(favelados)と呼ばれる。最初のファヴェーラの住民はアフリカ系住民で、現在も主体であるが、19世紀のヨーロッパからの貧しい移民流入に伴い、白人系の住民もファヴェーラに入ってきた。ファヴェーラの住民はかつては人種的不平等や人種差別による扱いを受けていたが、現在では経済的理由から差別されている[5]

フェヴェーラは、ブラジル国民の所得分配の著しい不平等の産物といえる。ブラジルでは人口の上位10%が国庫収入の50%を稼ぎ、人口の34%が貧困線以下で生活している。ブラジル政府は20世紀の間、常に貧困対策を行っていた。たとえば、1970年代の軍事政権下のファヴェーラ撤去では、10万人以上が追われ、新しい公共住宅や故郷の地方へと移住させられた[7]。また、ジェントリフィケーション(高級化)による貧困地域対策も行われた。都心付近のファヴェーラを一掃して上級な住宅を建設し、隣接するインナーシティとあわせてアッパー・ミドル・クラス(上位中産階級)の上の人々のための住宅地へと変えた。しかし、これにより都心付近の貧困地区が消え、ローワー・ミドル・クラス(下位中産階級)の流入が見られた一方、住む場所を失ったファヴェーラ住民は路上へ押し出されてホームレスとなったり、働き口のない郊外外縁部にまで追い出された。たとえばリオデジャネイロ市では、ホームレス人口の多くは黒人で、ファヴェーラの中級住宅地化や著しい貧困で住む場所を失っている[5]
麻薬ファヴェーラで銃を構え、警戒する武装警官シダージ・ジ・デウスの街路風景

コロンビアより流入したコカインの取引は、ブラジル社会およびファヴェーラに大きな悪影響を与えた。ファヴェーラに麻薬使用が集中し、地域のギャングたちが麻薬販売やダンスパーティを行うことで、ギャングは大きくなってゆき[8]、ファヴェーラは麻薬王に支配されるようになり、密売組織と警察の市街戦や、犯罪者同士の銃撃戦が起こっている場所もある。違法行為も横行し、リオデジャネイロ市民10万人に対する殺人率は40人を超えており、ファヴェーラではさらにこの数値は上昇する[9]。住民は、日頃の行動に注意を払い、密売組織との関係を保つことで自らの安全を確保できていると考えている。住民や組織が地域の秩序を維持し、互いに敬意を払うことにより、ファヴェーラの犯罪率は高いにもかかわらず、表面的には安全な生活が送られている。
ファヴェーラの拡大とその将来

リオやサンパウロといった大都市でのファヴェーラ一掃の試みにもかかわらず、貧困層の人口もファヴェーラも急速に拡大している。1969年には約300のファヴェーラがリオデジャネイロにあったが、2000年代には2倍となった。ファヴェーラの人口の伸びはブラジルの人口の伸びより急速である。1950年にはリオデジャネイロの人口の7%がファヴェーラ在住だったが、21世紀に入り19%がファヴェーラ在住となった。1980年から1990年の国勢調査の結果によればリオデジャネイロの人口増加率は8%に落ちたが、ファヴェーラでは人口は41%増加した。1990年代以降では市全体で7%の増加率に対し、ファヴェーラでは増加率は24%だった。政府による公営住宅建設も成果を挙げたものばかりではない。2002年の映画『シティ・オブ・ゴッド』で有名になったファヴェーラのシダージ・ジ・デウス(Cidade de Deus)は、1960年に都心付近のファヴェーラを一掃した後、その住民を郊外へ移住させるため州政府により建設された団地であったが、やがて荒廃し、団地内の社会はファヴェーラのそれと変わらないものになってしまった。リオデジャネイロ市のコンプレクソ・ド・アレマン(ポルトガル語版)のファヴェーラ。6万人以上が住むが、2007年には国家憲兵隊とギャングの銃撃戦も起きた。

ファヴェーラの人口増加は地方や国外からの人口流入にとどまらず、経済の悪化や社会の流動性の悪さが主な要因となっている。中間層は貧困化し安いファヴェーラに流れ、貧困層はジェントリフィケーションによりインナーシティにあった下町(スラム化した適法な住宅地)を追い出され、望むと望まざるとにかかわらず違法なファヴェーラへと流れる。さらに、低学歴・未熟練の労働者に対する求人や、ブルーカラーの雇用数が減少していること、ブラジルでは教育において公教育のレベルが低く、貧困層が義務教育以上の高学歴を得にくいことが、ファヴェーラからの脱出を難しくしている。ブラジルでは国立・州立の大学の学費は無料だが、実態としてそれらの入試に合格するには、学費の高い私立学校や予備校に通った者が有利であり、経済的に貧しいファヴェーラ出身者はこうした学校へは通えず、当然入試にも通りにくい[10]

ブラジルが民政に戻った1980年代末以後、ファヴェーラに対する政府の対策は変化している。1990年代からの「Favela Bairro」(近隣のファヴェーラ)計画では、都市計画家はファヴェーラを一掃し公営住宅に住民を押し込む計画を立てるのではなく、ファヴェーラの存在を認め、社会学者や市民活動家らとともに共同作業を行い、ファヴェーラの生活基盤と社会サービスを改善し生活水準を上げることを目指している。ファヴェーラ住民をならず者や麻薬ギャングの構成員と扱わず、最終的には安全で安定した共同体の市民として誇りが持てるようにすることが目標となっている。2005年段階で、「Favela Bairro」計画の下で6億ドルが公園や街路建設が進められ、リオの400以上のスラムのうち120にソーシャルワーカーなどが置かれた。貧困層には行き届かなかった電気や上下水道、ごみ収集サービス、託児所などがファヴェーラ内に導入され、ドメスティックバイオレンスや性的嫌がらせやドラッグ・アルコール中毒などに対する相談も行われており、計画開始後にはファヴェーラ内の商業活動の倍増や地価上昇も起こっている[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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