その後1958年秋にボーイング707の初号機の引き渡しを受け、同年10月26日にニューヨーク-パリに就航させたことを皮切りに、世界一周路線を含む世界各地への路線へ就航させた。またその翌年にはダグラスDC-8型機も就航させ、同じく国内幹線や世界各地の路線へ就航させた。
ボーイング707やダグラスDC-8などの、既存のプロペラ機の倍以上の旅客を倍近い速度で運ぶ大型ジェット機をパンアメリカン航空が大量就航させたことにより、世界各国における旅客機のジェット化を推進させただけでなく、1960年代初めまで大西洋横断路線における最大のシェアを持っていた定期客船の時代に終止符を打つ役目を果たすこととなった。 ボーイング707型機とダグラスDC-8型機の就航に合わせて、トリップの指揮のもとで、1960年にニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港(建設当時の空港名はアイドルワイルド空港)へのジェット機就航に対応した巨大な専用ターミナルビル「パンナム・ワールドポート
航空界のリーダー
1963年3月7日にはマンハッタンのランドマークの一つとなる、世界一高い商業オフィスビルであった巨大な本社ビル「パンナムビル」の竣工や、パンナムビルの屋上のヘリポートからジョン・F・ケネディ国際空港までのヘリコプターの運行、世界初のビジネスクラスである「クリッパー・クラス」の導入など、トリップの強力なリーダーシップのもと「航空界のリーダー」にふさわしい派手な展開を行う。
ボーイング747の導入ボーイング747
1960年代後半にパンアメリカン航空は、ボーイング社がアメリカ空軍の超大型輸送機として開発を進めていたが、ロッキード社の開発したC-5との発注競争に敗れたために民間型へ転用し開発をしようとしていた超大型旅客機であるボーイング747型機を、トリップの指示を受けて25機発注し、ローンチカスタマーとなった。
同機は2階にファーストクラス乗客用のラウンジを備えた他、旅客機として世界初の2列通路を持ち、ボーイング707の2倍強の350席以上のキャパシティを持つなど、これまでの旅客機の概念を一新する内容を持ち、その後同機はパンアメリカン航空のライバルであるトランスワールド航空や日本航空、英国海外航空なども相次いで発注し、その後の世界的な海外旅行の大衆化を後押しすることになる。 またトリップは、同時期にジョン・F・ケネディ大統領の指示を受けて開発されていた超音速旅客機であるボーイング2707の開発を後押しし、同時にイギリスとフランスが共同で開発していたアエロスパシアル・コンコルドとともに大量発注を行った(その後両機の発注はキャンセルされた)。 トリップは宇宙旅行における先駆者として君臨することをもくろみ、世界最初の民間宇宙飛行の運行会社になることを想定し、1960年代後半にアメリカや日本で乗客の予約を受け付け始めた(実際にスタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」においてスペースシャトルの運行主体として想定されていた)。 ボーイング747型機の開発と導入の目処がついた1968年に、トリップは40年以上勤めたパンアメリカン航空の会長の座を退き引退し、後任のハロルド・グレイにその座を譲ることを発表した。しかしその後も役員会のメンバーとしてしばらくの間同社の経営に関わった。 その後1981年にロサンゼルスの病院で死去した。死後の1985年には、アメリカの航空業界と外交への貢献を称えられ、ロナルド・レーガン大統領より大統領自由勲章を授与された。 トリップが没した頃パンアメリカン航空は、放漫経営とトリップ自身が音頭を取ったボーイング747導入、ナショナル航空買収による莫大な債務を抱え、さらに1978年から始まった航空自由化による他の航空会社との競争によって経営は悪化していた。トリップの死から僅か10年後の1991年、トリップが一代で築き上げたパンアメリカン航空は経営破綻し、運航を停止してしまった。
超音速旅客機と宇宙旅行
引退
関連項目
ボーイング747-SP
ロイ・コーン
インターコンチネンタルホテルズグループ
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