ファン・イムホフ号事件
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しかし、「ベロンガン」は、漂流者がドイツ人であることに気付くと救助作業を止め、一人も収容せずに引き返した[1]

その後、ドイツ人遭難者のうち筏に乗った者はすべて行方不明となり、2隻のボートに乗った者だけが1月23日にニアス島へと漂着した。生存者66人は、再びオランダ植民地政府によって拘束された[1]。「ファン・イムホフ」の沈没により、ボートからの上陸時の溺死者1人と上陸後の自殺者1人を含めて、ドイツ人412人が死亡する結果となった[2]
戦後の責任追及

事件はオランダ政府と軍によって隠蔽された。戦後の1953年、ドイツ人生存者たちは、「ファン・イムホフ」の船長を殺人罪でオランダ検察へと告訴した。2年後、オランダ法務省は調査を上級裁判所検事長に命じたが、その翌年に不起訴とされた。不起訴理由は、戦時下としては可能な限りの救命活動がされたというものであった[1]

1964年、オランダ公共放送のVARA(オランダ語版)により事件を題材としたテレビ・ドキュメンタリー番組が制作されたが、検閲により放送できなかった。しかし、担当記者が調査結果をオランダの新聞『ヘット・パロール(オランダ語版)』紙で発表したことから、ドイツでも『デア・シュピーゲル』誌で取り上げられ[2]、事件はようやく広く知られるようになり、両国で大きな反響を呼んだ[1]

以後、オランダの歴史家や政府によって調査が行われた。1984年にオランダ国立戦争記録研究所が公刊した記録では、本事件は「オランダ史における汚点」と評されている[1]。2017年末にBNNVARA(オランダ語版)(前記VARAの後身)は、番組放送中止の経緯も含めて事件を取り上げた番組を放映した[5]
脚注^ a b c d e f g h i j k l マルティン・クレーガー「インド洋で撃沈された“ヴァン・イムホフ”号」『世界戦争犯罪事典』文藝春秋、2002年、554-556頁。 
^ a b c d e “Van Imhoff Untergang Das Totenschiff” (ドイツ語). デア・シュピーゲル. (1965年12月21日). https://www.spiegel.de/politik/das-totenschiff-a-33050f5c-0002-0001-0000-000046275481?context=issue 2023年7月8日閲覧。 
^ 大内健二『捕虜輸送船の悲劇』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2014年、32-33頁。 
^ Lachlan Grant (2013). “They called them “Hellships”-”. Wartime Magazine (Australian War Memorial) (63): 30-36. https://www.awm.gov.au/sites/default/files/Wartime-issue-63-They-called-them-Hellships.pdf. 
^ “De ondergang van de Van Imhoff” (オランダ語). BNNVARA (2018年6月3日). 2023年7月8日閲覧。

参考文献

マルティン・クレーガー 「インド洋で撃沈された“ヴァン・イムホフ”号」『世界戦争犯罪事典』 文藝春秋、2002年、554-556頁。

関連項目

ヘルシップ

ヴァルター・シュピース - ファン・イムホフ号事件で命を落としたドイツ人画家。

外部リンク

De ondergang van de Van Imhoff
- BNNVARAが2017年に放送した関連番組紹介


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