ファラオ
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現メンフィス)を建設した[注釈 4][21]

古代のエジプトにおいては前述したような灌漑水路を統制できる権力から王権が形成されたと言えるが、実際には宗教的権威がより強かったようである[21]。王は、王家の出身地ティニス地方の守護神である鷹神ホルスの化身とされていた[21][24]。同様の鷹の神は下エジプトにおいても信仰されていたため、征服された側の下エジプトにも受け入れられやすかったとされる。王は、この鷹を宮殿を模した枠であるセレクの周囲に配置した。これが「ホルス名」と呼ばれる第一の、そして最古の称号である[21]セレクとその上に止まるホルス

さらに、王国の統一を記念して王の第二の称号である「ネブティ名」が加えられる。これは二柱の動物化した女神からなり、それぞれが上下エジプトの象徴となっているため、王が両方の土地の守護神の化身であることを示したものである[21]壁に刻まれたネブティ名の冒頭

しかしながら、第1王朝5代デン王の時に第三の称号(碑文などにおいては実際は四番目に書かれる)「即位名 (上下エジプト王名)」が王の称号に加えられたことにより王の在り方は一度大きく変わる。ここでは、王はすでに神の化身とはされておらず、上エジプトと下エジプトの「所有主」とされており、王は神の化身としての「宗教的権威」に加え、国土の所有者であるというより現実的な「政治的権威」をも持ち合わせた。さらに、王位更新祭 (セド祭(英語版))を慣例に反して[注釈 5]王主導で実行するなど王の現実的権威が確立され、王主体の神王理念が発展した[26]

この後王朝は第2王朝へと推移するが、ここでセト・ペルイブセン王の登場により王の主神が変更された。セト・ペルイブセン王の名前。ホルスではなくセトが配置されている。

この王は、初期段階はホルス名「セケムイブ」を用いていたが、治世の途中にホルスではなく、戦神セトをセレクの上に置き (いわゆる「セト名」)、「ペルイブセン」と名乗った。この理由については現在も様々な学説があるが、現実的な王権に対する上エジプトの伝統主義者による反動と見なされている。これは、セトはもともと上エジプトのオムボスの神であり、上エジプトの首長たちがペルイブセン王を擁立して前時代的王権への復帰を画策したものと考えられている。しかしながら次王のカセケムウイはホルスとセトを同時にセレクの上におき、セトの優位性が薄れた[26]

その後古代エジプト文明を通じて、セト名を用いた王は一人もいないことより、王権の変化を目指す試みは失敗したとされる[注釈 6]
古王国
前期

初期王朝時代をかけて行われた王権を確立するための模索は、第2王朝末期のセト信仰とホルス信仰の争いにおけるホルス信仰の勝利により、王を神格化しホルス神の化身であるとみなすことによって終結する[29]第3王朝初代王ジェセルが王の称号に加えた第四の称号(碑文などにおいては実際は三番目に書かれる)「黄金のホルス名」はこのホルス信仰の勝利を記念したものであると見られている[29][26]。また、ジェセル王はエジプト史において初めて、マスタバを改良させて作られた階段ピラミッド (ジェセル王のピラミッド)を含む複合葬祭施設を建造した。屋形 (1969)は、強大な王権が確立されたからこそ、このような王個人のためだけの大葬祭建築物の建造が可能になったとする説を提唱している。

なお、このピラミッド建設事業は第4王朝においても継続された[26]スネフェル王の石碑。上部のカルトゥーシュには即位名・ネブティ名・黄金のホルス名の冒頭文字が単なる称号として扱われており、五重称号の形成過程であることがわかる[30]

第4王朝初代王スネフェルは王権の在り方をまたも変革させうる、太陽神ラーの要素を導入した。王は太陽神ラーの化身とされ、死するとラーとなって神々の玉座に就き、毎日太陽とともに大空を航行するとされた。ギザの三大ピラミッドを建造したクフ、カフラー、メンカウラーの時代は巨大な王墓 (ピラミッド)に象徴されるように王権は最大化され、名実とともに完成した[26]

しかしながら、このヘリオポリス出身の神ラーの信仰が興ったことにより、神王理念に基づく王権は弱体化した。第五の称号「 誕生名 (サア・ラー名)[注釈 7]」の登場により、王の神としての性格は神に直接由来することが示されたが、ラーを王の上位に置いていることより王権は後退したとの解釈もできる[26]。このラー信仰が王権に影響を及ぼした最も顕著な例が第5王朝であり、そもそも開祖は太陽神ラーとヘリオポリス神官の妻との息子とされている。これ以降、末期王朝時代に至るまで単語「ラー」は規則的に王の即位名に現れるようになる[26]

ラーと、神王理念に基づく王権との力関係の逆転を示すのは、ピラミッドの大きさであるという。最大のクフ王の146.5mと比べて、第6代ニィウセルラー王のピラミッドは約50mであり、太陽神殿のオベリスクの高さは55mである。これを見るとラーに比べての王権の後退は明瞭であると屋形 (1969)は言う[26]
後期

古王国時代末期の第5王朝後期から第6王朝になると、王権の弱体化がよりはっきりと表れる。第5王朝第8代ジェドカラーの治世になると、太陽神殿の建造が見られなくなる。第5王朝はヘリオポリスのラー神官団の影響を顕著に受けて創始されたものであるが、神官団は次第に王の政策に干渉するようになり、ラー信仰が揺らいできたと松本 (1998)は言う[31]

さらに、メンフィスはナイルデルタ付近に位置しているため、もともと上エジプト出身の王が下エジプトを監督するのには都合がよかったが、時がたつにつれ逆に上エジプトの長官たち (地方豪族)を統制する力が弱まってきた[32]

また、依然として家臣は王に「良き神」と呼び掛けていたとはとはいえ、家臣と王との"距離感"は小さくなっていった。官僚制度の発展とともに、役職は王からの直接委任であるという認識が薄らぎ、官僚はみずからの力で現在の地位を勝ち取ったという意識を持ち始めた。こうした王権からの独立心は慣例として役職を世襲することに表れており、特に王都から離れた地方においては州知事は赴任地に土着し、自らの宮殿さえ築くようになったという。このような独立傾向を強めた州知事は「州侯」と呼ばれる[33]

このような州侯の権力増大に対し、王権の側より対抗措置が試みられた。一つに、ペピ1世に見られるような強力な地方豪族の娘と婚姻関係を結ぶ行動で、これによりペピ1世は約40年にわたる長期政権を誇り、この政策は成功したと見られる[34]。しかし、その後のメルエンラー1世からペピ2世にかけては中央集権体制が揺らいできた[34]ようであり、王権は二つ目の方策として王家に忠誠心を持つ人物を「上エジプト総督」職に任命する政策をとる。しかしながら、この職は州知事に与えられ始め、実権を失い強大な州侯に対する名誉称号と化した。第6王朝末期ペピ2世の長い治世[注釈 8]になると、王の無気力さとも相まって王権は州侯による地方分権化を抑制する手段を失い、国土は州侯が割拠する状態となった[33]。この王権の弱体化として、屋形 (1969)は四つの原因を挙げる。第5王朝3代ネフェルイルカアラー王と第5代ニィウセルラー王のピラミッド。表面の石は崩落し、土台構造が見えている。いまだ形を保っている三大ピラミッドと比較せよ。

第一に、多大な資金を要する上に代替わりごとに行われる、ピラミッドの建造。王朝が下るにつれてその建築技術も低下していった[33]

第二に、「葬祭財団」の増加。これは、一定面積の土地を指定し、その収入を持ち主の死後の供養のために確保するものであり、この土地は租税などが免除されたり、官僚などから保護された。よって、時代が進むにつれて多くの土地が葬祭財団の所有物になったため、租税が減少し、その代わり残りの土地にはより重い租税がのしかかる結果となった。加えて、神殿もこのような租税免除の特権を保証する権利があり、州侯が「神官長」の称号を獲得し地方神殿の管理権を得るにつれ、州侯の不輸・不入権の拡大に利用された[33][注釈 9]

第三に、貴族の私有地所有と、分業体制。


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