ファミリーコンピュータ
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例えば、上村は1983年12月発売の野球ゲームである『ベースボール』で、ダイヤモンドが表示されなくなる問題[30]や本体の温度がすぐに上がってしまい、素早く絵を表示するためのスプライトが消失する「消える魔球」現象[96]で正月休みを返上して回収に当たった[97]
^ 岩崎啓眞は「当時家庭用ゲームハードでは不可能だった全方向スムーススクロール・多色スプライト・当時としては悪くない音源を備えたマシンで、もうゲームをやるために必要な機能はパーフェクトに備えている」と評価している。[98]
^ サードパーティーの概念は1977年(昭和52年)にアタリが発売したVideo Computer Systemが作り上げたもので、当時の日本ではゲームソフトのサードパーティーの概念は普及しておらず、発売当初からサードパーティーの参入が想定されていたわけではない[99]
^ ファミリーコンピュータへのサードパーティーの参入はファミリーコンピュータが発売されて約1年後の1984年7月28日に『ナッツ&ミルク』を発売したハドソンが初めてであり、それによって日本で初めて家庭用ゲーム機のサードパーティービジネスが切り開かれるとともに、ソフト媒体の委託生産システムが生まれた[63][100]。ハドソンが参入した約1か月後にナムコが『ギャラクシアン』で2番目のサードパーティーとなったが、ファミリーベーシックの開発を受託したことからハードウェアに関する知識を得られたハドソン[101][102]と異なり、ナムコはハードウェアを独自に解析してソフト開発を行っていた。
^ 高橋名人が2016年にIT Mediaに寄せた記事によると、80年代当時はアーケードゲームが人気を博していたものの、利用料に絡んだ恐喝事件も起きており、PTAが小中学生にゲームセンターの利用を禁じていた[104]ため、当時の子どもたちにとっては「(親から禁じられている)ゲームセンターのゲームが家で遊べる」ということでヒットにつながったと推測している[105]
^ ただし値下げ販売を快く思わなかった任天堂は、値下げ店への対策として一時出荷を停止している[107]
^ カセットビジョンの開発に携わったエポック社の堀江正幸によれば、ファミコンとは「技術的にはたいした違いはなかった」とする一方でファミコンの勝因に関して、カセットビジョンはソフトを全て自社開発する方針だったのに対し、ファミコンはサードパーティーを引き込んだことでソフトラインアップが豊富だったことを挙げている[109]
^ ソード電算機システムM5はゲームソフトは自社では作らず全て他社からの移植という方針だったが、ソード創業者の椎名堯慶は「任天堂さんはゲーム作りが優れていた。ゲームの世界で育ってきた会社ですから、お客さんを喜ばせる方法を知っていた」[110]とファミコンの勝因を分析している。
^ 当時、米国任天堂社長だった荒川實は、ビデオゲームに対する拒絶反応があまりに強いので、最初はほとんど商売にならなかったと述べている[112]
^ これは1981年のガンプラブームの時にも見られた傾向である。
^ファミコンCAP』、『熱血!ファミコン少年団』、『ファミコンロッキー
^ファミ拳リュウ』、『ファミコン風雲児
^われらホビーズ ファミコンゼミナール
^ 「ヒロインであるはずのシルビアが主人公に牙をむく」(『スパルタンX』)[117]や、「特定のエリアにて、バンゲリング帝国の最終兵器が出てくる」(バンゲリングベイ』)などが該当する[118]。作者のあさいもとゆきは担当編集者の提案により導入したと書籍『超ファミ漫』の中で説明している[118]
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