この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2021年4月) 当時、アーケードゲームで人気を博していた『ドンキーコング』が見劣りなく家庭で遊べる程度の性能を目標に設定して、開発は1981年10月または11月頃より、当時業務用ゲーム事業の縮小によって手の空いていた開発第二部(上村雅之らアーケードゲームの開発陣)が行った[27][28]。開発開始の直前にコレコ社がコレコビジョンの試作品を任天堂に持ち込んでおり、その性能に開発第二部の技術者たちは驚くとともに、今後開発すべき製品のイメージとしてコレコビジョンを据えた[29]。 開発コードネームは最初は「テレビゲーム」[30]、その後「ヤングコンピュータ」[30]など紆余曲折した。「ファミリーコンピュータ」の名前は上村の妻が付けたという話もあるが[31]、上村本人はそれを否定し実際は自ら命名し、妻は略称の「ファミコン」を名付けたと証言した[30]。 当時の任天堂の販売戦略・設計思想としては次のような5つの要目があった[32]。 このように、デザイナーの自由な発想を満足させ、かつプレイヤー・オーディエンスともに満足させるものを提供するため、結果的にゲームに不要な部分は排除され、ゲーム専用機に絞ったことにより、汎用機と比較して高性能化を実現した。 当時の任天堂社長である山内溥は、当初「本体価格を1万円以下に抑えよ」との要求を出しており[注釈 8]、それを踏まえて上村らのハード開発部隊は徹底的に製造費を下げる方針を採った。一例として、本体附属のコントローラにアタリのジョイスティック型ではなく十字キー型を選択した[33][34][注釈 9]。さらに当初コントローラはコネクタ接続を予定していたが、コスト低減のためにコネクタを省略して本体直付けとした[36]。 1980年代前半はまだ家庭用ゲーム機の普及率が低く、汎用のICチップ[注釈 10]を流用することが一般的であった。結果として画面解像度は低く(100×100程度)、色数も数色程度で、画面スクロールの実現も難しいゲーム機が多かった。パソコンにしてもまだ黎明期にあり、高価な割にCPUやメモリの制約が厳しく、グラフィックやサウンドに至っては最低限の仕様とされていた。 それに対して、任天堂は家庭用ゲーム機でアーケードで稼働しているゲームを遜色なく遊べるようにするために、当時人気のあった『ドンキーコング』のアーケード基板を参考に、ゲーム向けに仕様を最適化した各種カスタムICの開発を行った。山内は他社が真似をするのに1年間[37]もしくは3年間[33]はかかる性能を要求した。 カスタムICはリコー製のものを使用した。
開発
低価格設定
手軽に買える価格設定を行い、親が子供に買い与えやすいようにする。
ソフトの重視
多彩なソフトをどんどん発売し、常に新しい遊びを提供する。
デザイナーの重視
コンピュータの専門家ではないデザイナーでも開発支援ツールを使うことで、ゲームのデザインができる。
観ているだけでも楽しい
ゲームで遊んでいる本人以外でも、観ているだけで楽しめる映像表現を提供する。
簡易な操作性
十字型のキーと2つのボタンだけで、画面を見ながら容易にキャラクターを操作できる。
低価格設定
高性能
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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