両面ソフトの場合は必ずA面から読み込ませる必要があり、B面から読ませようとするとエラーが発生する。そうした特徴からタイトル画面のデータとセーブ領域をA面にまとめているソフトが多い。
ほとんどのタイトルは両面ソフトだが、片面や2枚組のソフトも存在する。片面ソフトは1枚のディスクのもう片面に別の片面ソフトを書き込むことができた。2枚組ソフトは両面ソフト2枚を使った前後編で、後編の再開・中断には前編ディスクが必須であった。
任天堂純正品のディスクの色[10]には、
通常の黄色ディスク
シャッター付きの青色ディスク
イベント景品用の金色ディスク
同じくイベント景品用に作られた銀色ディスク
開発用の白色ディスク
検品用のピンク色ディスク
の6種類存在する。銀色ディスクは流通数が少なく知名度が低い。
ディスケット形状はクイックディスクに比べやや細長くなっており、ディスク下部に「NINTENDO」の刻印がある。この刻印はドライブ挿入時にかみ合う仕組みになっており、任天堂純正品以外は用いることができないように工夫されていたが、実際には通常のクイックディスクも、ディスケットの形状さえハックできれば、フォーマットすることで普通に使用できた。任天堂からはデータが収録されていない、いわゆる生ディスクは供給されず、ゲームソフトを購入して後述するディスクライターに書き換えることになっていた。クイックディスクはMIDIシーケンサーやMZ-1500、MSXに採用されていたが、流通量は多くはなく、三才ブックス『バックアップ活用テクニック』誌のPART10には当時まだ存在していた8インチのフロッピーディスクを切り抜いてクイックディスクに改造する制作記事まで掲載された。その後、アイ・ツーやハッカーインターナショナルから非公認の生ディスクが発売されていた[11]。また、市販のクイックディスクに取り付けて「NINTENDO」刻印でのメディア選別をすり抜けるためのアダプターも発売されていた。 ディスクカードは任天堂の認定店である玩具店もしくはゲーム専門店に設置されていた「ディスクライター」を使うことで、内容を別のゲームに書き換えることができた。書き換えについては書き換えたいゲームのデータが記録された「ソフトパック」という大型のカートリッジや持ち込んだディスクカードをディスクライターに挿入して行われ、書き換え動作は設置店の店員が担当していた。設置台数は全国で約3,200台。書き換えの料金は通常1タイトル500円、永谷園のCMが出る『帰ってきたマリオブラザーズ』は400円と、新規にディスクカードを購入するよりも安くゲームを楽しむことができたため、当時の主要ユーザーだった児童層からこのシステムは歓迎された。なお、新作の発売と同時に書き換えが開始されるわけではなく、2週間から1か月半ほど期間を開けてから行われていた。 前述のように市場には公式な生ディスクは存在せず、書き換えするためにはまずゲームソフトを購入してディスクを入手することになっていた。『スーパーマリオブラザーズ2』など、片面のみ用いる一部の市販ディスクはB面が初めから空いており、B面に別のゲームを書き込めた。一部のディスクライターで供給されたソフトにはパッケージ販売された新作ゲームだけでなく、過去にロムカセットで販売された作品や、ディスクライターでのみ購入できた書き換え専用ソフトも存在する。またソフトによっては、パッケージ版と書き換え版で一部内容が異なる場合がある。 書き換えたゲームの説明書はパッケージ販売用と同じものが用意され、一部のゲームでは一冊100円で販売、その他は無料で配布していたが、後にパッケージ販売用とは異なる、2色印刷の簡易版が無料配布される形式へ変更された。書き換え版の供給されたすべての説明書にはディスクカードに貼り付けるタイトルシールが付属したが、のちにタイトルシールが不足したため自分でゲームタイトル名をペンで書き込むタイプの白色シールの「ネームラベル」が代わりにされた。さらに、書き込みの受付が終了する直前には書き換え希望が殺到し、説明書や白のネームラベルも品切れとなった店も存在した。 ディスクライターはディスクシステムの衰退とともに任天堂に回収される形で1993年(平成5年)2月中旬に店頭から撤去され始め、3月末には店頭から姿を消した。一方でユーザーへの救済措置のため、その後も同額にて任天堂本社、及び支店(札幌・東京・大阪・名古屋・岡山)で郵送または社内持込による対応が行われていたが、経年による機材老朽化で維持継続が困難となり2003年9月30日到着分を最後に対応が終了した。その後ディスクライターは任天堂に保管[12]され、現存する最後の1台であるディスクライターが2014年(平成26年)公開の映画『ゲームセンターCX THE MOVIE 1986 マイティボンジャック』に登場。2023年(令和5年)にはファミコン40周年キャンペーンの一環としたインターネット番組『ファミコントークショップ コバヤシ玩具店』ではスタジオのセットとしてディスクライターが飾られている[13]。 ディスクシステムは黄色のディスクが一般的だが、後期には青色のシャッター付きのディスクを必要とするソフトも発売された。これは店頭に設置された、ディスクに保存されたスコアやセーブデータなどを任天堂とやりとりする「ディスクファックス」[1][14]と呼ばれる装置に対応したディスクで、黄色のディスクとは上位互換である。対応ソフトは『ゴルフJAPANコース』『ゴルフUSコース』『中山美穂のトキメキハイスクール』『ファミコングランプリ F1レース』『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』の計5種。また、未対応ではあるが『リサの妖精伝説』も青ディスクが採用されていた。青ディスクには書き換えソフトの制限は無いが、逆に黄色ディスクを青ディスク用の前記6タイトルに書き替えることはできない。 1988年(昭和63年)サービス終了。 このシステムは任天堂が普及に意欲を見せていた、ファミリーコンピュータを用いた家庭用通信システムの試金石とも位置づけられるものであり、ディスクシステムのディスクドライブにも通信用拡張ポートが備えられていた[15]。同じ拡張ポートはツインファミコンにも存在する。 任天堂は1986年秋を目途に「ファミリーコンピュータ・ネットワークシステム」を開始し、日本電信電話の大型コンピュータに接続されたネットワークを介して1つのゲームへの同時参加やメッセージのやり取りを行う構想を、1985年(昭和60年)9月に山内博社長が明らかにした[16]。 これは実現しなかったが、1988年(昭和63年)7月発売の「ファミリーコンピュータ通信アダプタセット」に応用され、キャプテンシステムへの接続や株式売買(ファミコントレード)、公営競技の電話投票 (JRA-PAT) などのサービスが行われた。ユーザーは別売りの通信アダプタを購入してファミコンに挿入すると、電話回線 (DDX-TP) を介してこれらのサービスに接続できた。しかし、処理速度やグラフィック表示など性能面での限界が低いファミコンを使ったこれらのシステムは、パソコンで行うパソコン通信による同様のサービスに移行する形で淘汰された。なお、JRA-PATは2015年(平成27年)7月末日まで、賭式の制限があるものの勝馬投票券を購入できた[17]。 販売用ソフトの箱や説明書は一部のタイトルを除いて仕様が統一されていた。透明樹脂製の外箱の中にディスクカードを収めた透明プラスチック製のケース、それと同サイズの平綴じ説明書(表紙がそのまま箱の正面デザインを兼ねる)[注釈 3]、カード用ラベルシール、チラシ類が収納され、外箱の蓋にはセキュリティシールが張られていた。 ディスクシステム発売後しばらくは任天堂発売のソフトのみであった。その理由は任天堂がディスク化されたゲームの著作権の共有化を求めて、他社はこれに承服できなかったためである[18]。結局ディスク化されたゲームの著作権の共有化はされることなく、他社からも順次発売されることになった。 任天堂以外での最初のソフトはコナミが1986年9月26日に発売した『悪魔城ドラキュラ』[19]だった。
ディスクライター
ディスクファックス
ネットワークアダプタファミリーコンピュータ
通信アダプタセットコントローラJPA-PAT カード
ソフトウェア詳細は「ディスクシステムのゲームタイトル一覧」を参照