西洋の衣服(洋服)の歴史については、洋服の歴史を参照「フランスのファッション」も参照 頻繁に変化するファッションという西洋の現象は概して古代には見られなかったし、他の大文明でも数十年前まではあまり類を見ないものであった。ペルシア・トルコ・日本・中国などへ旅した初期の西洋人旅行家たちは現地のファッションの変化のなさをしばしば報告したし、逆にそれらの他文化圏から西洋に来た観察者は西洋ファッションの目紛しいペースでの変化を西洋文化の不安定さと無秩序さの現れではないかと報告していた。日本の征夷大将軍の@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}老中[訳語疑問点]は1609年にスペイン人の来訪者に、日本の衣服は1000年以上もの間変化していないと語った[9]。しかしながら、例えば中国の明では漢服に頻繁に変化するファッションが存在したとする注目に値する証拠がある[10]。 古代ローマや中世イスラム帝国などでのように、経済・社会的な変革に伴って装いに変化が起こることはしばしばあるが、その後は長きに亘って大きな変化は起きなかった。例えば、ムーア人時代のスペインでは8世紀に、高名な音楽家Ziryab ヨーロッパでスタイルが連続的・加速度的に変化してゆく慣習が始まったのは14世紀中頃であるとかなりはっきりしており、ジェームズ・レーヴァー
古代
近代以前のヨーロッパ
15世紀にはファッションの変化するペースは大きく加速し、男性・女性のファッション、特に衣服と髪型は、どちらも等しく複雑かつ移り変わるものとなった。このおかげで、美術史家は図像の年代を高い信頼度と精度で特定できるようになり、15世紀の図像の場合では5年単位での特定もしばしば可能となった。ファッションの変化はまずヨーロッパの上流階級全体が非常に似通った衣服のスタイルをしていたのを細分化させ、各国は独自のスタイルを発展させるようになり、17-18世紀にはそれに逆行して再び類似したスタイルを強いる動きが現れ、最終的にはフランスのアンシャンレジームのファッションが支配的となった[16]。通常は富裕層がファッションを先導したが、近世ヨーロッパの富の増大によりブルジョワジーや農民までさえも流行を追うようになり、時としてはエリート階級が不快に感じる水準にまで至った――ブローデルはこれがファッションを変化させる主要な動機の1つと考えていた[17]。
16世紀のドイツもしくはイタリアの紳士の肖像画が10枚あれば10個の全く違った帽子が描かれているであろう。この時期は国ごとの違いが最も顕著であり、これはアルブレヒト・デューラーが15世紀末にニュルンベルクとヴェネツィアのファッションを(実録または合成で)対比させた記録にも現れている(右図)。16世紀末の「スパニッシュ・スタイル」はヨーロッパの上流階級でのファッションの共時性への回帰の始まりとなり、17世紀中葉の葛藤の後、フランスのスタイルが決定的に指導的位置を占め、18世紀にはこの過程は完結した[18]。
布地の色と模様は年を追って変化したが[19]、紳士の外套の断ち方やベストの丈、淑女のドレスを裁断する時の型などの変化はよりゆっくりとしていた。男性のファッションは主に軍装から派生しており、西洋男性のシルエットの変化はヨーロッパ内の戦域で紳士将校たちが異国のスタイルを目にすることによって刺激を受けていた。「スティーンカーク」(Steinkirk)のクラヴァット(英語版)もしくはネクタイがその一例である。 1780年代には最新のパリのスタイルを伝えるフランスの版画出版の増加によりファッションの変化が加速した[20]。ただし、17世紀には既に見本として着飾った人形がフランスから流通していたし[20]、1620年代以降はアブラハム・ボス
近代以後
仕立屋や裁縫師たちが多くの革新に関与してきたことは間違いないし、織物産業も確かに数多くの流行を先導したが、ファッションデザインの歴史が始まったとされるのは1858年、イギリス出身のシャルル・フレデリック・ウォルトが最初のオートクチュール店をパリに開いた日である[24]。ウォルトはデザイナーによる季節ごとの新デザイン提案、ファッションモデルの起用とファッションショーの開催を行い、現代のファッションシステムの構築とプロのデザイナーの主導的地位をもたらした[24]。1868年にはパリにおいてオートクチュール協会が設立された[25]。
19世紀後半から20世紀前半にかけては、紳士服の変化が停滞したのに対し、婦人服は大きく変動した。19世紀までの婦人ファッションはコルセットなどで体を細く締め上げるものが主流であったが、1906年にポール・ポワレがコルセット不要のドレスを発表したことで流れは大きく変わった[26]。ポワレはまた、新素材の開発や、衣服以外にも香水や服飾雑貨などの分野に進出し、積極的なプロモーション活動を行うことで市場を大きく広げた[27]。第一次世界大戦下の総力戦体制によって婦人の社会参加が進んだことで、大戦後にはココ・シャネルらの活動的・機能的なファッションが支持を得て、コルセットは完全に消滅した[28]。1940年にナチス・ドイツによるフランス占領が起きるとファッションの中心地であったパリは大打撃を受け、多くのオートクチュール店は閉店し、幾人かのデザイナーは国外へ移住したものの、オートクチュール組合は維持されており[29]、戦後は再び復活し隆盛を迎えた[30][31]。