ファッション
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すでに1920年代から映画はファッションの流行にある程度の影響を与えていたが[42]、1950年代に入ると影響は非常に大きなものになった[43]

特にファッションの都と呼ばれる世界的なファッションの中心地ではファッションウィークが開催され、デザイナーたちは観衆に新作の衣装コレクションを発表する。ロンドンパリミラノニューヨークは多くの大ファッション企業やブランドの本拠地となっており、世界のファッションに多大な影響力を持っている。パリを中心としたファッションの世界では、「サンディカ」と呼ばれるパリの高級服専門の組合に所属している店の作る、特注のオートクチュールや、有名デザイナーがデザインする既製服であるプレタポルテのファッションショーが行われる。パリで1月と7月に開催されている[44]「オートクチュール・コレクション」は、サンディカに所属するメンバーと、その他の少数のメゾンにしか発表が許されていないファッションショーである。オートクチュールおよびそのコレクションは長い歴史を持ち現在でも顧客を持つものの、顧客数は非常に少なくなっており主力は他部門へと移っている[45][46]。またプレタポルテは、日本語で「コレクション」と呼ばれる[注 1]ファッションショーがあり、それぞれ年2回、2月から3月および9月から10月までの間に、ニューヨーク・コレクションロンドン・コレクションミラノ・コレクションパリ・コレクションの順で開催されている[47]。また、1985年にはじまった東京コレクションのように[48][49]、4大コレクション以外のコレクションも世界各地で開催されている。こうしたハイファッションのほか、スポーツウェアやジーンズなどのカジュアルウェアもファッションの大きな部分を占めている[50]

90年代初頭、アート色の強い日常離れした服に対して、一般的に普段着として着られるような服、リアルクローズをデザインする動きが高まった。これは、それまでデザイナーが作ってきた流行ではなく、人間が着ているだろう服を想定し、より消費者に近いファッションの発信をしようとするものである。この動きは、2000年ごろからはファストファッションとも結びつき、「H&M」や「ZARA」などの世界的な衣料品チェーン企業が勃興している[51]。一方、高級ブランドにおいては1980年代以降積極的な買収によって巨大企業化が進み、フランスのLVMH、スイスのリシュモン、フランスのケリングの3社が突出した大企業となっているものの、独立系のブランドも多く残存している。またこうしたブランド巨大企業は、衣服だけでなく宝飾時計など高級品全般にまたがるコングロマリットを形成している[52]
日本

日本においては、1927年9月21日に、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催された。これは着物のショーであり、一般からデザインを募ったファッションショーでもあった[53]

1953年には、当時ヨーロッパで隆盛を極めたファッションデザイナーのクリスチャン・ディオールが来日し、海外ファッションの導入が始まった[54]。当時の洋服は基本的に注文品で、オーダー服を基軸にしたオートクチュールだったが、日本国内では繊維不況のあおりを受け、そのような最新ファッションは大衆の手に入りにくいものとなっていた。1958年には、同じくピエール・カルダンが来日。量産のプレタポルテの時代の到来を告げる。当時、オーダー服と量産既製服の占める割合は7対3程度にまでなりつつあった。この後、1960年代以降から衣料の大量消費の時代が始まることになる。1975年頃よりニュートラが全国的に流行[55]。これにより海外高級ブランドユーザーの大衆化(若年齢化)[55]セレクトショップのブーム[56]、ファッション誌のモデル大量起用など、時代の転換点となった。2000年代に入ると高級ブランドが退潮の傾向を示す一方[57]、海外のファストファッション企業が相次いで進出し低価格化が進んだ[58]
ファッションメディア『ガゼット・デュ・ボン・トン』のファッション画(1913)2006年のファッション写真

ファッション・ジャーナリズム(英語版)はファッションの重要な一部分である。編集者による批評や解説が雑誌、新聞、テレビ、ファッションサイト、SNS、ファッションブログなどで行われている。また、ブログなどを通じて世間に影響力を及ぼすブロガーを、インフルエンサーと呼ぶ。

20世紀初頭から、ファッション雑誌は写真やイラストレーションを盛り込みはじめ以前よりも一層強い影響力を持つようになった。世界中の都市でこれらの雑誌は大人気となり、一般人の嗜好に深い影響を及ぼした。最新のファッションと美容の変化を伝える出版物のために才能あるイラストレーターたちが洗練されたファッション画を描いた。こうした雑誌のうちで最も有名なのはおそらく、リュシアン・ヴォージェル(フランス語版)が1912年に創刊し、戦時中を除き1925年まで定期的に刊行された『ガゼット・デュ・ボン・トン(フランス語版)』(『上品な雑誌』)であろう[59]

1892年にアメリカ合衆国で創刊された『ヴォーグ』は現れては消えていった無数のファッション雑誌の中で最も長続きし最も成功したもののひとつである[60]第二次世界大戦終結後の経済的繁栄と、そして何より、1960年代の安価なカラー印刷の出現によってヴォーグ誌は爆発的に部数を伸ばし[61]、また主流の女性雑誌でもファッションを大きく取り上げるようになった。1990年代には男性雑誌もこれに続いた。オートクチュールのデザイナーはプレタポルテ香水を扱いはじめることでこの流れに乗り、これらは雑誌で大々的に宣伝され、現在では本来の服飾ビジネスを矮小化する結果となっている。

テレビでは1950年代にファッションの小特集が組まれるようになった。1960-70年代にはさまざまな娯楽番組でファッションのコーナーがより頻繁に流されるようになり、1980年代にはファッションテレビジョン(英語版)、ファッション通信のようなファッション専門の番組も出現した。テレビや、近年のファッションブログなどのインターネットによる露出の増大をよそに、ファッション産業の視点からは出版物による露出は最も重要な広告形態であり続けている。

ファッション編集者のシャロン・マクレランはこう語っている――「ファッション界には、テレビ・雑誌・ブログが消費者に何を着るべきかを命令しているのだという誤解があります。しかし、ほとんどのトレンドはターゲット層を調査してからリリースされています。従って、あなたがメディアで目にするものは、人々の間で人気のあるアイデアを調査した結果なのです。本質的に、ファッションというのは人々がアイデアをキャッチボールする営みなのです、他のアート形式もみなそうであるように。」[62]
知的財産権

ファッション産業では、映画産業音楽産業でのようには知的財産権は施行されていない。他の誰かのデザインから「インスパイヤされる」という営為は、ファッション産業が衣服の流行を作り出す能力に貢献している。新しい流行を作り出すことで消費者に衣服を買うよう誘い込むことはこの産業の成功の鍵となる要素である。流行を作り出すプロセスを妨げる知的財産権は、この観点からは、非生産的なものとなる。その一方で、新しいアイデアや、ユニークなデザインや、デザインのディテールなどを大きな企業があからさまに剽窃するのは、数多くの小規模な独立したデザイン会社を破綻させている原因であるともしばしば議論される。デザイン性の高いファッションアイテムを安価で購入できるのは、消費者にとっては望ましいことのように思われるが、トレンド発信源であるデザイナーに十分な報酬が行き渡らなくなり、結果としてファッション業界が衰退してしまうという恐れがある。ニューヨーク州では米ファッションデザイナー協議会などが、ファストファッション企業の行為を差し止め、デザイン保護が認められるよう州政府に働きかけている。


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