ファッション
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19世紀までの婦人ファッションはコルセットなどで体を細く締め上げるものが主流であったが、1906年にポール・ポワレがコルセット不要のドレスを発表したことで流れは大きく変わった[26]。ポワレはまた、新素材の開発や、衣服以外にも香水や服飾雑貨などの分野に進出し、積極的なプロモーション活動を行うことで市場を大きく広げた[27]第一次世界大戦下の総力戦体制によって婦人の社会参加が進んだことで、大戦後にはココ・シャネルらの活動的・機能的なファッションが支持を得て、コルセットは完全に消滅した[28]。1940年にナチス・ドイツによるフランス占領が起きるとファッションの中心地であったパリは大打撃を受け、多くのオートクチュール店は閉店し、幾人かのデザイナーは国外へ移住したものの、オートクチュール組合は維持されており[29]、戦後は再び復活し隆盛を迎えた[30][31]

ウォルト以来ファッションの中核は長らくオートクチュールが担ってきたが、1960年代に入ると高級既製服であるプレタポルテが登場し、1975年にパリ・プレタポルテコレクションがはじまるなど[32]、オートクチュールに代わってファッションの中核となった[33]。また1950年代から1960年代にかけて、ジーンズミニスカートに代表されるストリートファッションが登場し、急速に台頭して一つの大きな潮流となった[34]。ファッション産業の中心地は18世紀以降長きにわたってパリであったが[35][36]、1970年代以降はオートクチュールが衰退するとともに、ミラノやニューヨークなどでメゾンの設立が相次ぎ、1976年にミラノ・コレクションがはじまる[37]など各地のコレクションが力を持つようになり、ミラノ[38]やニューヨークも中心地のひとつとなった[35]。こうして1970年代後半には現在の4大コレクションが成立した[39]
現代のファッション産業2008年、ロサンゼルスファッションウィークのランウェイショー

20世紀後半に入り、一般大衆の経済力が向上するに伴い、ファッションは上流階級が独占する小さな市場から大衆の参加する巨大市場へと変貌した。これによって、既製服を生産するアパレル産業がファッション産業への参入を行い、また価値観の多様化が起きてさまざまなファッションが併存するようになった[40]。現代では、ファッションは大きな産業となっている。大小さまざまなブランドが次々に新しい様式の服飾を提案し、たえず流行を創出することで消費者の購買意欲を促進している[3]ファッションモデルによる華やかなファッションショーも行われ、成功したファッションデザイナーやモデルは名声と富を獲得し、関連製品の販売促進のためファッション写真ファッション雑誌も盛んである。

ファッション・ジャーナリズムのみならず、一般のマスメディアがファッションにもたらす影響も大きなものである。広告やCMもさることながら、ある対象に対する人気そのものが流行を生み出し、広告などとの連携でその影響はさらに強まった[41]。すでに1920年代から映画はファッションの流行にある程度の影響を与えていたが[42]、1950年代に入ると影響は非常に大きなものになった[43]

特にファッションの都と呼ばれる世界的なファッションの中心地ではファッションウィークが開催され、デザイナーたちは観衆に新作の衣装コレクションを発表する。ロンドンパリミラノニューヨークは多くの大ファッション企業やブランドの本拠地となっており、世界のファッションに多大な影響力を持っている。パリを中心としたファッションの世界では、「サンディカ」と呼ばれるパリの高級服専門の組合に所属している店の作る、特注のオートクチュールや、有名デザイナーがデザインする既製服であるプレタポルテのファッションショーが行われる。パリで1月と7月に開催されている[44]「オートクチュール・コレクション」は、サンディカに所属するメンバーと、その他の少数のメゾンにしか発表が許されていないファッションショーである。オートクチュールおよびそのコレクションは長い歴史を持ち現在でも顧客を持つものの、顧客数は非常に少なくなっており主力は他部門へと移っている[45][46]。またプレタポルテは、日本語で「コレクション」と呼ばれる[注 1]ファッションショーがあり、それぞれ年2回、2月から3月および9月から10月までの間に、ニューヨーク・コレクションロンドン・コレクションミラノ・コレクションパリ・コレクションの順で開催されている[47]。また、1985年にはじまった東京コレクションのように[48][49]、4大コレクション以外のコレクションも世界各地で開催されている。こうしたハイファッションのほか、スポーツウェアやジーンズなどのカジュアルウェアもファッションの大きな部分を占めている[50]

90年代初頭、アート色の強い日常離れした服に対して、一般的に普段着として着られるような服、リアルクローズをデザインする動きが高まった。これは、それまでデザイナーが作ってきた流行ではなく、人間が着ているだろう服を想定し、より消費者に近いファッションの発信をしようとするものである。この動きは、2000年ごろからはファストファッションとも結びつき、「H&M」や「ZARA」などの世界的な衣料品チェーン企業が勃興している[51]。一方、高級ブランドにおいては1980年代以降積極的な買収によって巨大企業化が進み、フランスのLVMH、スイスのリシュモン、フランスのケリングの3社が突出した大企業となっているものの、独立系のブランドも多く残存している。またこうしたブランド巨大企業は、衣服だけでなく宝飾時計など高級品全般にまたがるコングロマリットを形成している[52]
日本

日本においては、1927年9月21日に、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催された。これは着物のショーであり、一般からデザインを募ったファッションショーでもあった[53]

1953年には、当時ヨーロッパで隆盛を極めたファッションデザイナーのクリスチャン・ディオールが来日し、海外ファッションの導入が始まった[54]。当時の洋服は基本的に注文品で、オーダー服を基軸にしたオートクチュールだったが、日本国内では繊維不況のあおりを受け、そのような最新ファッションは大衆の手に入りにくいものとなっていた。1958年には、同じくピエール・カルダンが来日。量産のプレタポルテの時代の到来を告げる。当時、オーダー服と量産既製服の占める割合は7対3程度にまでなりつつあった。この後、1960年代以降から衣料の大量消費の時代が始まることになる。


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