1945年4月28日、RSI政府の崩壊とムッソリーニの死によりRNFは消滅した。
大戦後に成立した現在のイタリア共和国議会では民主主義に対する脅威として、後継組織である共和ファシスト党(RNF)と並んで再結党が禁止されている("Transitory and Final Provisions", Disposition XII)。一方でRNFの元党員らを中心にネオ・ファシズム政党「イタリア社会運動」(MSI)が結党され、国民同盟、自由の人民、イタリアの同胞などを通じて現代でも思想は引き継がれている。2022年にはイタリアの同胞党首のジョルジャ・メローニがイタリア首相に就任した。 1926年、1938年に制定された党規約[27]によると、ファシズムの指導は「ドゥーチェの指導の下、ファシズム大評議会の示した方針により、中央及び地方の合議機関を通じて行われる」とされていた。全国規模の合議機関は全国評議会と全国指導部、地方においては県ごとに置かれる県連合とその指導部であった。県連は戦闘者ファッシをまとめる存在であると定義されていた。 氏名 後に救出され、イタリア社会共和国及び共和ファシスト党指導者となる。プレダッピオ 氏名
組織
象徴
党歌:『ジョヴィネッツァ』 (Giovinezza)
党章・党旗等
党章(党名、三色旗、ファスケス)
党旗(黒旗、ファスケス)
制服などに用いられた古代ローマの鷹紋章
スローガン
Il Duce! (我らがドゥーチェ)
Viva il Duce! (ドゥーチェ万歳)[25]
Eja, eja, alala! (万歳!万歳!万歳!)
Viva la morte (犠牲を払え)
Credere, obbedire, combattere ("信じ、従い、戦う")
Libro e moschetto - fascista perfetto (書物と銃がファシストを作る)
Tutto nello Stato, niente al di fuori dello Stato, nulla contro lo Stato (国家こそ全て、国家の外には何もない)
Se avanzo, seguitemi. Se indietreggio, uccidetemi. Se muoio, vendicatemi (我らが進むなら、汝も続け。我らが退けば、汝が殺せ。我らが死ねば、汝が復讐せよ。)
Me ne frego (何も気に留めず)
La liberta non e diritto e un dovere (自由は権利ではない、義務である)
Noi tireremo diritto (我らは進む)
La guerra e per l'uomo, come la maternita e per la donna (男の闘争性は、女の母性と同じである)[26]
指導体制
合議機関
役職
指導者詳細は「ドゥーチェ」および「総統#イタリア」を参照
(生没年)肖像任期兼務背景退任理由出生地
ベニート・ムッソリーニ
(1883?1945)1921年11月9日 ? 1943年7月27日
首席宰相及び国務大臣(国家指導者)
首相・内務大臣・外務大臣
大元帥
党大評議会議長
党機関紙編集長
党の創設者としてファシズム運動の精神的指導者に位置付けられる。反枢軸国勢力のクーデターによって幽閉。
(エミリア=ロマーニャ州)
書記長
(生没年)肖像任期その他の役職(前職及び退任後の役職含む)背景退任理由出生地
ミケーレ・ビアンキ
(1883?1930)1921年11月10日 - 1923年10月13日
公共事業大臣
下院議員
党四人官(ファシスト四天王)
終身評議員
前職は政治家。退役軍人。ローマ大学で法学を専攻後、
サンディカリズムの理論家として活躍。ムッソリーニと行動を共にし、初代書記長に任命される。フランチェスコ・ジュンタが第2代書記長に指名。ベルモンテ・カーラブロ
(カラブリア州)
フランチェスコ・ジュンタ(イタリア語版)
(1887?1971)1923年10月13日 - 1924年4月23日
ダルマチア州知事
下院議員
前職は弁護士。退役軍人。
トスカーナ州のファシズム運動を通じて台頭した。第2代書記長となるが政治情勢の変化から早期に退任する。党規約改正により集団指導体制に移行。サン・ピエーロ・ア・シエーヴェ
(トスカーナ州)
四頭体制
(ロベルト・ダヴァンツァティ(イタリア語版)、
ジョヴァンニ・マリネッリ(イタリア語版)、チェーザレ・ロッシ(イタリア語版)、アレッサンドロ・メルチオリ(イタリア語版)) 1923年10月13日 - 1924年4月23日