ファシスト党
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これにより、1870年以来つづいてきた教皇庁とイタリア王国の対立は解消し、ファシスト党はカトリック教徒の支持を確保したこととなる[注 7]。ムッソリーニは、ローマ教皇庁に対し、小中学校におけるカトリック教育の義務化、聖職者の徴兵の免除、教会の葬祭・婚姻の統制などを認めるなど大幅に譲歩し、これらと引き替えにファシスト独裁体制の威信を高めることに成功した。

ムッソリーニはつとにヴェルサイユ体制の打破を唱えた。また、「古代ローマ帝国の復興」を掲げたが、これは単なる士気向上が主目的であり、現実味の片鱗もない話であった。経済危機を打開するために膨張主義政策に着手し、1927年にはアルバニア王国を保護国化、1935年10月にはエチオピアを併合した。1938年、人種法を制定する。

経済政策の面では、1922年から1925年にかけてアルベルト・ステファニ(it )が政府のコストを削減し、民間企業をほとんど国有化することなく、一時頻発したストライキをおさえ、景気は回復して失業者も減少し、生産力も増した。治安も改善して、特にマフィアの活動を押さえ込んで犯罪件数を減少させた。所有形態を維持しながら一連の成果を挙げたため、イギリスアメリカなどの民主主義国家の指導者や評論家のなかにも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える向きがあり、辛口な論評で知られたイギリスのウィンストン・チャーチルさえ「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。しかし、1929年世界恐慌の影響により失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、第二次世界大戦が開戦する1939年までには、イタリアはソビエト連邦に次いで国有企業の多い国となった。1939年3月、議会を廃止して全国組合協同会議にかえ、全体主義の組合国家体制としている。
ムッソリーニ失脚と党の解体「イタリアの降伏」、「イタリア社会共和国」、および「共和ファシスト党」も参照

1943年、連合国軍の本土上陸を許した上に、エチオピアを含むアフリカでの戦いにも敗北し、完全に劣勢に立たされたイタリアでは国王を中心にムッソリーニ追放の動きが始まった。7月24日、5年ぶりにヴェネツィア宮殿で行われたファシズム大評議会において、下院議長で王党派のディーノ・グランディ伯爵は連合国との開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及し、「統帥権の国王への返還」の動議を提出した。これに対し、ムッソリーニの女婿でもあったガレアッツォ・チャーノ外務大臣を含む多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し、過半数の賛成を得て成立した。ムッソリーニは翌7月25日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にその旨を報告したその直後に憲兵隊に拘束され、即座に幽閉された。

ムッソリーニの失脚により、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はファシスト党の解散を命令、ピエトロ・バドリオを首相に任命。バドリオは7月27日に初閣議を開催し、ファシスト党の解散を決議した[28]

その後、ムッソリーニは9月にアドルフ・ヒトラーの指令によるグラン・サッソ襲撃によって救出され、ドイツ支配下の北イタリアに建てられた傀儡政権イタリア社会共和国(サロ政権)の首班となった。ドイツの強い要請により大評議会で賛成票を投じたチアーノら幹部は処刑された。社会共和国でファシスト党は共和ファシスト党として再建されヴェローナ憲章(it:Manifesto di Verona)を綱領としたが、ほとんど活動は行われなかった。1945年4月25日に社会共和国が崩壊すると、党も自然消滅した。
ファシスト党の流れを汲む現代政党「イタリア社会運動」、「国民同盟 (イタリア)」、および「自由の国民」も参照

イタリアにおいては、第二次世界大戦後もファシスト党の流れを汲む一定の勢力(イタリア社会運動)が存在した。現在のイタリアの極右政党国民同盟も、穏健化してはいるがファシスト党の影響を残している。国民同盟の穏健化は国民から評価され、1994年のフォルツァ・イタリアによるシルヴィオ・ベルルスコーニ政権誕生へとつながった。

また国民同盟はかつて、ベニート・ムッソリーニの孫娘アレッサンドラ・ムッソリーニが所属していた。アレッサンドラは国民同盟を離党後、極右政党「行動の自由 (Liberta di Azione) 」(現在の名称は「社会行動 (Azione Sociale)」)を結成した。欧州議会選挙では他のネオ・ファシズム運動と連携して会派「社会的選択 (Alternativa Sociale) 」を組織して票を獲得し、アレッサンドラは欧州議会議員に当選した。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 近代イタリアにおいて展開されたファシズムと、そこから派生したナチズム、ファランジズム(英語版)、ネオファシズムを区別する立場からは古典的ファシズム(英語版)とも呼称される。
^ 全国ファシスタ党と訳される場合もある
^ 「イタリア人民」の意。
^ フランス政府の機密費を受けていたという。
^ ムッソリーニは、この計画が失敗に終わった場合、亡命できるよう準備していたという。
^ 1927年、「労働憲章」によってファシスト労働組織に改組
^ ただし、ピウス11世はムッソリーニ政権下のイタリアを必ずしも良くは思っておらず、1931年には回勅『ノン・アビアモ・ビゾーニョ』で公式にファシスト党を非難している。

出典^ 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年9月30日閲覧。
^ a b c Gr?i?, Joseph. Ethics and Political Theory (Lanham, Maryland: University of America, Inc, 2000) p. 120.

Griffin, Roger and Matthew Feldman, eds., Fascism: Fascism and Culture (London and New York: Routledge, 2004) p. 185.

Jackson J. Spielvogel. Western Civilization. Wadsworth, Cengage Learning, 2012. p. 935.

^ a b c Stanley G. Payne. A History of Fascism, 1914?1945. p. 106.
^ a b Roger Griffin, "Nationalism" in Cyprian Blamires, ed., World Fascism: A Historical Encyclopedia, vol. 2 (Santa Barbara, California: ABC-CLIO, 2006), pp. 451?53.
^ a b Riley, Dylan (2010). The Civic Foundations of Fascism in Europe: Italy, Spain, and Romania, 1870?1945. Johns Hopkins University Press. p. 42. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-0-8018-9427-5. https://books.google.com/books?id=Lc_KTSUOQPkC&pg=PA42 


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