ファシスト党
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1912年には社会党執行委員に選ばれ、党の重要な日刊紙「アバンティ!(Avanti!、「前進」 )」の編集長にまでなっていたが、1914年夏、第一次世界大戦がはじまると、伝統的な平和主義から「イタリアの絶対中立」を唱えた党の方針に反対、戦争とその帰結にこそ革命の展望があるとする立場から11月「ポポロ・ディタリア (Il Popolo d'Italia )」[注 3]を創刊して、イタリアが英仏協商側に立って参戦すべき[注 4]との意見を主張してイタリア社会党を除名された。また、14年末からはイタリア各地でうまれた参戦主義者団体「革命行動団」の指導者となった。

1919年3月23日、ムッソリーニはミラノで、復員軍人を主体にして、革命阻止と国粋主義(ナショナリズム)の立場で「イタリア戦闘者ファッシ」を組織した。創立大会の出席者は145人といわれ、復員将校のほか、地主や資本家の子息である右翼学生が多く、上述のように「未来派」の影響を受けた青年も多かった。創立大会宣言では、イタリアの領土の拡大を主張している。6月6日にはポポロ・ディタリアからフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティらによるファシスト・マニフェストが出版されている。

1919年から1920年にかけて、北部イタリアの諸都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主の土地を占拠して地代の支払いを拒否するなどの小作争議も起こって社会不安が醸成されていた。

戦闘者ファッシは、当初は、王政の廃止、戦時利得の85パーセント没収、労働者の経営権への参加、最低賃金制、大土地所有者の土地の農民への分与などサンディカリスム的な綱領を掲げていた。そうしたなかで、1919年11月の総選挙ではイタリア社会党が全体の3割にあたる180万票を獲得して154議席を確保したのに対し、戦闘者ファッシの獲得票は5,000票たらずであり、1人の当選者も出なかった。

1920年になるとストライキは激化し、9月には北イタリアで社会党左派(1921年1月、イタリア共産党を結成)の指導のもと50万人の労働者が工場を占拠し、農民も各地で地主保有地を占拠するなど、あたかも革命前夜を思わせるような情勢となった。社会党指導部の不決断により工場占拠闘争が敗れ、革命的情勢は退潮に向かったものの、ポー平原ボローニャ県フェラーラ県では、農業労働者による農業協約改訂闘争が勝利し、社会党も10月の地方選挙で引きつづき優位に立って2,000以上の自治体を掌握した。こうした、零細農民や労働者の直接行動に危機感を抱いた地主、土地を得た中小農、都市の中間層は、自由主義政府の支援を求めた。しかし、それがかなわないと知ると、彼らは戦闘者ファッシと連携して武装行動隊(squadra)を編成し、20年秋より直接行動の挙に出た。ローマ進軍を行うファシスト党員

ムッソリーニも黒いシャツを制服として使用させた「黒シャツ隊」を武装行動隊として編成して、こうした革命的な動きを暴力的に鎮圧した。これにより、中産階級・資本家、軍部、地主層などの支持を広げて資金や武器を得て1921年5月の総選挙ではムッソリーニふくむ35名の下院議員を当選させ、同年11月、戦闘者ファッシは政党「ファシスト党」(全国ファシスタ党)に改組、ミケーレ・ビアンキ(it)を書記長とした。1922年5月と8月の2度にわたり、政府軍に代わってゼネラル・ストライキを鎮圧し、軍や資本家の支持を不動のものとした。

さらに1922年10月24日、ナポリで開かれたファシスト党大会でムッソリーニは「政権がわれわれに与えられるか、われわれがそれをとるかだ」と演説し、28日、4万人のファシスト党員がビアンキ、デ=ボーノ、デ=ベッキ、バルボの「ファシスト四天王(ムッソリーニ四天王)」と称される4人の幹部に率いられてナポリなどからローマにむけて進軍する示威行動、いわゆる「ローマ進軍」をおこなった。ムッソリーニ自身はこの進軍に参加せず、ミラノに待機した[注 5]。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は10月30日ムッソリーニに組閣を命じ、首班指名を受けて政権を授与された。彼は翌31日、ミラノから寝台列車でローマにはいった。こうして、史上初のファシズム政権が成立した。
独裁体制の確立詳細は「ファシズム大評議会」を参照

1923年ファシスト党に有利な新選挙法が制定され、1925年から26年にかけて結社や治安・行政権の集中に関する諸法律を制定、1926年11月にはファシスト党以外のすべての政党の解散を遂行して、一党独裁制を確立した。イタリア王室、軍部、財界などの支持を得て独裁体制をととのえた。またファシスト産業組合[注 6]を設立して労働組合を統制し、言論の自由もきびしく制限された。1924年にはユーゴスラビアとの直接交渉で未回収のイタリアの一部であるフィウーメ自由市を獲得し、ファシズム政権最初の外交的勝利となった。1928年9月には、ファシズム大評議会を正式に国政の最高機関とした。

1929年にはローマ教皇ピウス11世ラテラノ条約を結び、ローマ教皇庁との和解が成立し、イタリア王国はカトリックを唯一の宗教とすることを認め、教皇の主権下にバチカン市国がイタリアから独立することを承認した。これにより、1870年以来つづいてきた教皇庁とイタリア王国の対立は解消し、ファシスト党はカトリック教徒の支持を確保したこととなる[注 7]。ムッソリーニは、ローマ教皇庁に対し、小中学校におけるカトリック教育の義務化、聖職者の徴兵の免除、教会の葬祭・婚姻の統制などを認めるなど大幅に譲歩し、これらと引き替えにファシスト独裁体制の威信を高めることに成功した。

ムッソリーニはつとにヴェルサイユ体制の打破を唱えた。また、「古代ローマ帝国の復興」を掲げたが、これは単なる士気向上が主目的であり、現実味の片鱗もない話であった。経済危機を打開するために膨張主義政策に着手し、1927年にはアルバニア王国を保護国化、1935年10月にはエチオピアを併合した。1938年、人種法を制定する。

経済政策の面では、1922年から1925年にかけてアルベルト・ステファニ(it )が政府のコストを削減し、民間企業をほとんど国有化することなく、一時頻発したストライキをおさえ、景気は回復して失業者も減少し、生産力も増した。治安も改善して、特にマフィアの活動を押さえ込んで犯罪件数を減少させた。所有形態を維持しながら一連の成果を挙げたため、イギリスアメリカなどの民主主義国家の指導者や評論家のなかにも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える向きがあり、辛口な論評で知られたイギリスのウィンストン・チャーチルさえ「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。しかし、1929年世界恐慌の影響により失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、第二次世界大戦が開戦する1939年までには、イタリアはソビエト連邦に次いで国有企業の多い国となった。1939年3月、議会を廃止して全国組合協同会議にかえ、全体主義の組合国家体制としている。
ムッソリーニ失脚と党の解体「イタリアの降伏」、「イタリア社会共和国」、および「共和ファシスト党」も参照

1943年、連合国軍の本土上陸を許した上に、エチオピアを含むアフリカでの戦いにも敗北し、完全に劣勢に立たされたイタリアでは国王を中心にムッソリーニ追放の動きが始まった。7月24日、5年ぶりにヴェネツィア宮殿で行われたファシズム大評議会において、下院議長で王党派のディーノ・グランディ伯爵は連合国との開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及し、「統帥権の国王への返還」の動議を提出した。これに対し、ムッソリーニの女婿でもあったガレアッツォ・チャーノ外務大臣を含む多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し、過半数の賛成を得て成立した。ムッソリーニは翌7月25日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にその旨を報告したその直後に憲兵隊に拘束され、即座に幽閉された。

ムッソリーニの失脚により、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はファシスト党の解散を命令、ピエトロ・バドリオを首相に任命。バドリオは7月27日に初閣議を開催し、ファシスト党の解散を決議した[28]

その後、ムッソリーニは9月にアドルフ・ヒトラーの指令によるグラン・サッソ襲撃によって救出され、ドイツ支配下の北イタリアに建てられた傀儡政権イタリア社会共和国(サロ政権)の首班となった。ドイツの強い要請により大評議会で賛成票を投じたチアーノら幹部は処刑された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:81 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef