1922年10月31日、ルイージ・ファクタ政権へのクーデターであるローマ進軍が成功してムッソリーニ政権が樹立され、PNFは連立与党の中心となった。1924年4月6日、旧国民ブロックをPNFに統合した上で新たな選挙連合「国民リスト」(Lista Nazionale、LN)を立ち上げ、60%以上の得票を得て議会で多数派を形成した。選挙勝利後も多党制の枠組みを維持していたが、反ファシスト運動との激しい対立(イタリア語版)を経て、1924年12月31日にムッソリーニは独裁制への移行を宣言して首席宰相及び国務大臣(イタリア語版)に就任、政府権限を大幅に強化した。これに合わせてPNFも一党制に向けて動き、党の諮問機関であるファシズム大評議会を国家の最高機関に定めた上でPNF以外の全政党へ解散命令を出し、1929年3月24日の総選挙で全議席を獲得してイタリアにおける一党独裁が確立された。
PNFは未来に向けて現代化されるイタリアが、同時に伝統に基づいた愛国心と団結を高める事によって社会的繁栄を迎えると看做していた[24]。規律を重視し、ストライキ等の抵抗的な労働運動は弾圧されたが、この時期、鉄道等は時刻表通りよく運行されていたという。PNFによるファシズム思想に基いた社会改革は第二次世界大戦への参戦によって水泡に帰し、ムッソリーニ幽閉後の1943年7月27日に解散を命じられた。1943年9月18日、ナチスの要請を受けてムッソリーニはPNFの後継政党として共和ファシスト党(RNF)を結党し、イタリア社会共和国(RSI)の政権与党となった。
1945年4月28日、RSI政府の崩壊とムッソリーニの死によりRNFは消滅した。
大戦後に成立した現在のイタリア共和国議会では民主主義に対する脅威として、後継組織である共和ファシスト党(RNF)と並んで再結党が禁止されている("Transitory and Final Provisions", Disposition XII)。一方でRNFの元党員らを中心にネオ・ファシズム政党「イタリア社会運動」(MSI)が結党され、国民同盟、自由の人民、イタリアの同胞などを通じて現代でも思想は引き継がれている。2022年にはイタリアの同胞党首のジョルジャ・メローニがイタリア首相に就任した。 1926年、1938年に制定された党規約[27]によると、ファシズムの指導は「ドゥーチェの指導の下、ファシズム大評議会の示した方針により、中央及び地方の合議機関を通じて行われる」とされていた。全国規模の合議機関は全国評議会と全国指導部、地方においては県ごとに置かれる県連合とその指導部であった。県連は戦闘者ファッシをまとめる存在であると定義されていた。 氏名
組織
象徴
党歌:『ジョヴィネッツァ』 (Giovinezza)
党章・党旗等
党章(党名、三色旗、ファスケス)
党旗(黒旗、ファスケス)
制服などに用いられた古代ローマの鷹紋章
スローガン
Il Duce! (我らがドゥーチェ)
Viva il Duce! (ドゥーチェ万歳)[25]
Eja, eja, alala! (万歳!万歳!万歳!)
Viva la morte (犠牲を払え)
Credere, obbedire, combattere ("信じ、従い、戦う")
Libro e moschetto - fascista perfetto (書物と銃がファシストを作る)
Tutto nello Stato, niente al di fuori dello Stato, nulla contro lo Stato (国家こそ全て、国家の外には何もない)
Se avanzo, seguitemi. Se indietreggio, uccidetemi. Se muoio, vendicatemi (我らが進むなら、汝も続け。我らが退けば、汝が殺せ。我らが死ねば、汝が復讐せよ。)
Me ne frego (何も気に留めず)
La liberta non e diritto e un dovere (自由は権利ではない、義務である)
Noi tireremo diritto (我らは進む)
La guerra e per l'uomo, come la maternita e per la donna (男の闘争性は、女の母性と同じである)[26]
指導体制
合議機関
役職
指導者詳細は「ドゥーチェ」および「総統#イタリア」を参照
(生没年)肖像任期兼務背景退任理由出生地
ベニート・ムッソリーニ
(1883?1945)1921年11月9日 ? 1943年7月27日
首席宰相及び国務大臣(国家指導者)