ファシスト党
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まず民族主義(イタリア・ナショナリズム)を重視し、民族統一主義による領土拡大を提唱した[17]。父祖である古代ローマへの顕彰も含め、領土主張は生存圏理論の一種である地中海世界全体での領土拡大を目指す「不可欠の領域(イタリア語版)」へ拡張され、イタリア帝国が形成された[18]。経済政策ではサンディリカリズムとコーポラティズムが影響を持ち、国家の指導下で企業体と労働組合が協調する事を目指し[19]階級闘争を否定して階級協調を理想とした[20]自由主義リベラル)に対しては明確な敵対姿勢を見せたが、反動主義ではなかった[21]。また民族主義の観点から共産主義とも敵対したが[22]ジョゼフ・ド・メーストルに代表される過激な保守主義にも反対した[23]

1922年10月31日ルイージ・ファクタ政権へのクーデターであるローマ進軍が成功してムッソリーニ政権が樹立され、PNFは連立与党の中心となった。1924年4月6日、旧国民ブロックをPNFに統合した上で新たな選挙連合「国民リスト」(Lista Nazionale、LN)を立ち上げ、60%以上の得票を得て議会で多数派を形成した。選挙勝利後も多党制の枠組みを維持していたが、反ファシスト運動との激しい対立(イタリア語版)を経て、1924年12月31日にムッソリーニは独裁制への移行を宣言して首席宰相及び国務大臣(イタリア語版)に就任、政府権限を大幅に強化した。これに合わせてPNFも一党制に向けて動き、党の諮問機関であるファシズム大評議会を国家の最高機関に定めた上でPNF以外の全政党へ解散命令を出し、1929年3月24日の総選挙で全議席を獲得してイタリアにおける一党独裁が確立された。

PNFは未来に向けて現代化されるイタリアが、同時に伝統に基づいた愛国心と団結を高める事によって社会的繁栄を迎えると看做していた[24]。規律を重視し、ストライキ等の抵抗的な労働運動は弾圧されたが、この時期、鉄道等は時刻表通りよく運行されていたという。PNFによるファシズム思想に基いた社会改革は第二次世界大戦への参戦によって水泡に帰し、ムッソリーニ幽閉後の1943年7月27日に解散を命じられた。1943年9月18日、ナチスの要請を受けてムッソリーニはPNFの後継政党として共和ファシスト党(RNF)を結党し、イタリア社会共和国(RSI)の政権与党となった。

1945年4月28日、RSI政府の崩壊とムッソリーニの死によりRNFは消滅した。

大戦後に成立した現在のイタリア共和国議会では民主主義に対する脅威として、後継組織である共和ファシスト党(RNF)と並んで再結党が禁止されている("Transitory and Final Provisions", Disposition XII)。一方でRNFの元党員らを中心にネオ・ファシズム政党「イタリア社会運動」(MSI)が結党され、国民同盟自由の人民イタリアの同胞などを通じて現代でも思想は引き継がれている。2022年にはイタリアの同胞党首のジョルジャ・メローニイタリア首相に就任した。
組織
象徴

党歌:『ジョヴィネッツァ』 (Giovinezza


党章・党旗等


党章(党名、三色旗ファスケス

党旗(黒旗、ファスケス)

制服などに用いられた古代ローマの鷹紋章

スローガン

Il Duce! (我らがドゥーチェ)

Viva il Duce! (ドゥーチェ万歳)
[25]

Eja, eja, alala! (万歳!万歳!万歳!)

Viva la morte (犠牲を払え)

Credere, obbedire, combattere ("信じ、従い、戦う")

Libro e moschetto - fascista perfetto (書物と銃がファシストを作る)

Tutto nello Stato, niente al di fuori dello Stato, nulla contro lo Stato (国家こそ全て、国家の外には何もない)

Se avanzo, seguitemi. Se indietreggio, uccidetemi. Se muoio, vendicatemi (我らが進むなら、汝も続け。我らが退けば、汝が殺せ。我らが死ねば、汝が復讐せよ。)

Me ne frego (何も気に留めず)

La liberta non e diritto e un dovere (自由は権利ではない、義務である)

Noi tireremo diritto (我らは進む)

La guerra e per l'uomo, come la maternita e per la donna (男の闘争性は、女の母性と同じである)[26]

指導体制
合議機関

1926年、1938年に制定された党規約[27]によると、ファシズムの指導は「ドゥーチェの指導の下、ファシズム大評議会の示した方針により、中央及び地方の合議機関を通じて行われる」とされていた。全国規模の合議機関は全国評議会と全国指導部、地方においては県ごとに置かれる県連合とその指導部であった。県連は戦闘者ファッシをまとめる存在であると定義されていた。
役職
指導者詳細は「ドゥーチェ」および「総統#イタリア」を参照

氏名
(生没年)肖像任期兼務背景退任理由出生地
ベニート・ムッソリーニ
(1883?1945)1921年11月9日 ? 1943年7月27日

首席宰相及び国務大臣(国家指導者)

首相内務大臣外務大臣

大元帥

党大評議会議長

党機関紙編集長
党の創設者としてファシズム運動の精神的指導者に位置付けられる。反枢軸国勢力のクーデターによって幽閉。

後に救出され、イタリア社会共和国及び共和ファシスト党指導者となる。プレダッピオ
(エミリア=ロマーニャ州)

書記長

氏名
(生没年)肖像任期その他の役職(前職及び退任後の役職含む)背景退任理由出生地
ミケーレ・ビアンキ
(イタリア語版)
(1883?1930)1921年11月10日 - 1923年10月13日

公共事業大臣

下院議員

党四人官(ファシスト四天王

終身評議員
前職は政治家。退役軍人。ローマ大学で法学を専攻後、

サンディカリズムの理論家として活躍。ムッソリーニと行動を共にし、初代書記長に任命される。フランチェスコ・ジュンタが第2代書記長に指名。ベルモンテ・カーラブロ
(カラブリア州)
フランチェスコ・ジュンタ(イタリア語版)
(1887?1971)1923年10月13日 - 1924年4月23日

ダルマチア州知事

下院議員
前職は弁護士。退役軍人。

トスカーナ州のファシズム運動を通じて台頭した。第2代書記長となるが政治情勢の変化から早期に退任する。党規約改正により集団指導体制に移行。サン・ピエーロ・ア・シエーヴェ
(トスカーナ州)
四頭体制
(ロベルト・ダヴァンツァティ(イタリア語版)、

ジョヴァンニ・マリネッリ(イタリア語版)、チェーザレ・ロッシ(イタリア語版)、アレッサンドロ・メルチオリ(イタリア語版)) 1923年10月13日 - 1924年4月23日

元老院議員(ダヴァンツァティ)

下院議員(マリネッリ、メルチオリ)

党機関紙編集者(チェーザレ)
総選挙勝利後、

党組織の再編に伴い一時的に書記長制から4名の合議制とした。ロベルト・ファリナッチが第3代書記長に指名。
ロベルト・ファリナッチ
(1892?1945)1925年2月15日 - 1926年3月30日

下院議員
前職は鉄道局員。退役軍人。

ファシズム運動の急進派(非妥協派)の代表的人物であり、反ユダヤ主義など排外的な政策を推進した。ファシズム運動の穏健派(修正主義)を重用する

ムッソリーニと対立し、解任される。イゼルニア
(モリーゼ州)


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