ファシスト党
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書記長職から退任。ラヴェンナ
(エミリア=ロマーニャ州)
アデルキ・セレーナ(イタリア語版)
(1895-1970)1940年10月30日 - 1941年12月26日

公共事業大臣

下院議長
前職は弁護士。退役軍人。

アブルッツォでのファシズム運動を指導し、やがて国政に転じて大臣や下院議長を務めた。エットーレ辞任後の書記長となる。アルド・ヴィドゥソーニが第10代書記長に指名。ラクイラ
(アブルッツォ州)
アルド・ヴィドゥソーニ(イタリア語版)
(1914-1982)1941年12月26日 - 1943年4月19日

党青年団指導者
前職は弁護士。

第一次世界大戦を経験していない青年党員から、27歳の若さで書記長に抜擢された。カルロ・スコルツァが第11代書記長に指名。フォリアーノ・レディプーリア
(フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州)
カルロ・スコルツァ(イタリア語版)
(1897-1988)1943年4月19日 - 1943年7月27日

下院議員
前職は陸軍士官。国家ファシスト党最後の書記長。

ムッソリーニを中心とした国家指導体制への回帰を主張した。ディーノ・グランディらの党内クーデターに反対し、

王党派によって拘束される。パオラ
(カラブリア州)

議席

国民ブロック及び国民リストの議席数を含む

下院
年度票数得票率獲得議席順位+/?備考
1921年1,260,00719.1105 / 535第3党 105FICが国民ブロックから37議席を分配される
1924年4,653,48864.9375 / 535第1党 270PNFが国民ブロックを統合
1929年8,517,83898.4400 / 400第1党 25PNF以外の全政党を非合法化
1934年10,043,87599.8400 / 400第1党?選挙後に下院を廃止

党史
ファシスト党誕生の背景詳細は「第一次世界大戦」を参照

第一次世界大戦後の混乱がつづくイタリアでは、戦勝国でありながら、期待していたフィウーメなどの領地が得られず、ヴェルサイユ体制に強い不満をもつ人も少なくなかった。また、資源に乏しく経済基盤の脆弱であったイタリア王国は、その戦費を外債に依存したため財政難にみまわれた。経済危機も深刻で、大量の失業者が生まれ、ロシア革命の影響も受けて、労働者ストライキや農民の小作争議がひろがり、社会主義勢力が拡大した。物資不足から激しいインフレーションも起こって民衆の生活を直撃した。あたたかい歓迎と安定した暮らしを夢みてイタリアのために戦った兵士たちは、経済混乱にあえぐ祖国に帰り、新たな失業者の一群、余計者の集団として、むしろ冷たい視線を浴びることとなった。

折から1919年から1920年にかけては、労働者のストライキや農民の小作争議が頻発して社会不安が増加していたのである。
「イタリア戦闘者ファッシ」から政権獲得まで詳細は「イタリア戦闘者ファッシ」、「ローマ進軍」、および「サヴォイア家」を参照

第一次世界大戦前のベニート・ムッソリーニは、イタリア社会党内では正統派マルクス主義というよりはジョルジュ・ソレル思想に影響を受けており、党主流の社会改良主義的な路線とは一線を画し、その批判者として頭角を現した。1912年には社会党執行委員に選ばれ、党の重要な日刊紙「アバンティ!(Avanti!、「前進」 )」の編集長にまでなっていたが、1914年夏、第一次世界大戦がはじまると、伝統的な平和主義から「イタリアの絶対中立」を唱えた党の方針に反対、戦争とその帰結にこそ革命の展望があるとする立場から11月「ポポロ・ディタリア (Il Popolo d'Italia )」[注 3]を創刊して、イタリアが英仏協商側に立って参戦すべき[注 4]との意見を主張してイタリア社会党を除名された。また、14年末からはイタリア各地でうまれた参戦主義者団体「革命行動団」の指導者となった。

1919年3月23日、ムッソリーニはミラノで、復員軍人を主体にして、革命阻止と国粋主義(ナショナリズム)の立場で「イタリア戦闘者ファッシ」を組織した。創立大会の出席者は145人といわれ、復員将校のほか、地主や資本家の子息である右翼学生が多く、上述のように「未来派」の影響を受けた青年も多かった。創立大会宣言では、イタリアの領土の拡大を主張している。6月6日にはポポロ・ディタリアからフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティらによるファシスト・マニフェストが出版されている。

1919年から1920年にかけて、北部イタリアの諸都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主の土地を占拠して地代の支払いを拒否するなどの小作争議も起こって社会不安が醸成されていた。

戦闘者ファッシは、当初は、王政の廃止、戦時利得の85パーセント没収、労働者の経営権への参加、最低賃金制、大土地所有者の土地の農民への分与などサンディカリスム的な綱領を掲げていた。そうしたなかで、1919年11月の総選挙ではイタリア社会党が全体の3割にあたる180万票を獲得して154議席を確保したのに対し、戦闘者ファッシの獲得票は5,000票たらずであり、1人の当選者も出なかった。

1920年になるとストライキは激化し、9月には北イタリアで社会党左派(1921年1月、イタリア共産党を結成)の指導のもと50万人の労働者が工場を占拠し、農民も各地で地主保有地を占拠するなど、あたかも革命前夜を思わせるような情勢となった。社会党指導部の不決断により工場占拠闘争が敗れ、革命的情勢は退潮に向かったものの、ポー平原ボローニャ県フェラーラ県では、農業労働者による農業協約改訂闘争が勝利し、社会党も10月の地方選挙で引きつづき優位に立って2,000以上の自治体を掌握した。こうした、零細農民や労働者の直接行動に危機感を抱いた地主、土地を得た中小農、都市の中間層は、自由主義政府の支援を求めた。しかし、それがかなわないと知ると、彼らは戦闘者ファッシと連携して武装行動隊(squadra)を編成し、20年秋より直接行動の挙に出た。ローマ進軍を行うファシスト党員

ムッソリーニも黒いシャツを制服として使用させた「黒シャツ隊」を武装行動隊として編成して、こうした革命的な動きを暴力的に鎮圧した。これにより、中産階級・資本家、軍部、地主層などの支持を広げて資金や武器を得て1921年5月の総選挙ではムッソリーニふくむ35名の下院議員を当選させ、同年11月、戦闘者ファッシは政党「ファシスト党」(全国ファシスタ党)に改組、ミケーレ・ビアンキ(it)を書記長とした。1922年5月と8月の2度にわたり、政府軍に代わってゼネラル・ストライキを鎮圧し、軍や資本家の支持を不動のものとした。

さらに1922年10月24日、ナポリで開かれたファシスト党大会でムッソリーニは「政権がわれわれに与えられるか、われわれがそれをとるかだ」と演説し、28日、4万人のファシスト党員がビアンキ、デ=ボーノ、デ=ベッキ、バルボの「ファシスト四天王(ムッソリーニ四天王)」と称される4人の幹部に率いられてナポリなどからローマにむけて進軍する示威行動、いわゆる「ローマ進軍」をおこなった。ムッソリーニ自身はこの進軍に参加せず、ミラノに待機した[注 5]。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は10月30日ムッソリーニに組閣を命じ、首班指名を受けて政権を授与された。彼は翌31日、ミラノから寝台列車でローマにはいった。こうして、史上初のファシズム政権が成立した。
独裁体制の確立詳細は「ファシズム大評議会」を参照

1923年ファシスト党に有利な新選挙法が制定され、1925年から26年にかけて結社や治安・行政権の集中に関する諸法律を制定、1926年11月にはファシスト党以外のすべての政党の解散を遂行して、一党独裁制を確立した。イタリア王室、軍部、財界などの支持を得て独裁体制をととのえた。またファシスト産業組合[注 6]を設立して労働組合を統制し、言論の自由もきびしく制限された。1924年にはユーゴスラビアとの直接交渉で未回収のイタリアの一部であるフィウーメ自由市を獲得し、ファシズム政権最初の外交的勝利となった。1928年9月には、ファシズム大評議会を正式に国政の最高機関とした。

1929年にはローマ教皇ピウス11世ラテラノ条約を結び、ローマ教皇庁との和解が成立し、イタリア王国はカトリックを唯一の宗教とすることを認め、教皇の主権下にバチカン市国がイタリアから独立することを承認した。


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