ファシスト党
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(エミリア=ロマーニャ州)

書記長

氏名
(生没年)肖像任期その他の役職(前職及び退任後の役職含む)背景退任理由出生地
ミケーレ・ビアンキ
(イタリア語版)
(1883?1930)1921年11月10日 - 1923年10月13日

公共事業大臣

下院議員

党四人官(ファシスト四天王

終身評議員
前職は政治家。退役軍人。ローマ大学で法学を専攻後、

サンディカリズムの理論家として活躍。ムッソリーニと行動を共にし、初代書記長に任命される。フランチェスコ・ジュンタが第2代書記長に指名。ベルモンテ・カーラブロ
(カラブリア州)
フランチェスコ・ジュンタ(イタリア語版)
(1887?1971)1923年10月13日 - 1924年4月23日

ダルマチア州知事

下院議員
前職は弁護士。退役軍人。

トスカーナ州のファシズム運動を通じて台頭した。第2代書記長となるが政治情勢の変化から早期に退任する。党規約改正により集団指導体制に移行。サン・ピエーロ・ア・シエーヴェ
(トスカーナ州)
四頭体制
(ロベルト・ダヴァンツァティ(イタリア語版)、

ジョヴァンニ・マリネッリ(イタリア語版)、チェーザレ・ロッシ(イタリア語版)、アレッサンドロ・メルチオリ(イタリア語版)) 1923年10月13日 - 1924年4月23日

元老院議員(ダヴァンツァティ)

下院議員(マリネッリ、メルチオリ)

党機関紙編集者(チェーザレ)
総選挙勝利後、

党組織の再編に伴い一時的に書記長制から4名の合議制とした。ロベルト・ファリナッチが第3代書記長に指名。
ロベルト・ファリナッチ
(1892?1945)1925年2月15日 - 1926年3月30日

下院議員
前職は鉄道局員。退役軍人。

ファシズム運動の急進派(非妥協派)の代表的人物であり、反ユダヤ主義など排外的な政策を推進した。ファシズム運動の穏健派(修正主義)を重用する

ムッソリーニと対立し、解任される。イゼルニア
(モリーゼ州)
アウグスト・トゥラーティ(イタリア語版)
(1888?1955)1926年3月30日 - 1930年10月7日

全国紙編集長
前職は新聞記者。退役軍人。

党内では報道・宣伝分野で活躍した。4年間に亘って書記長を務め、非妥協派を抑えて党の集権化を達成した。ファリナッチら非妥協派との政争を経て、

自ら書記長職を退任した。パルマ
(エミリア=ロマーニャ州)
ジョヴァンニ・ジュリアーティ(イタリア語版)
(1876-1970)1930年10月7日 - 1931年12月12日

フィウーメ総督

公共事業大臣

下院議長

元老院議員
前職は弁護士。退役軍人。歴代書記長では最年長で、

かつてはダンヌンツィオ派の運動に参加していた。トゥラーティ辞任後の書記長となる。アキーレ・スタラーチェが第7代書記長に指名。ヴェネツィア
(ヴェネト州)
アキーレ・スタラーチェ(イタリア語版)
(1889-1945)1931年12月12日 - 1939年10月31日

下院議員

国防義勇軍参謀長

イタリア五輪委員長
前職は陸軍士官。

古参のファシストの中で最もムッソリーニに盲目的であり、国家指導者として神格化するプロパガンダを展開した。過去最長の任期を務めていたが、

第二次世界大戦前に突然解任される。以降は終戦直前まで国政から遠ざけられた。サンニコーラ
(プッリャ州)
エットーレ・ムーティ(イタリア語版)
(1902-1943)1939年10月31日 - 1940年10月30日

航空団指揮官
前職は陸軍士官。

第一次世界大戦時に少年兵としてアルディーティ(突撃兵)に参加したという逸話を持つ。スペイン内戦でも爆撃機部隊の指揮官を務めるなどしている。第二次世界大戦で軍務への復帰を希望し、

書記長職から退任。ラヴェンナ
(エミリア=ロマーニャ州)
アデルキ・セレーナ(イタリア語版)
(1895-1970)1940年10月30日 - 1941年12月26日

公共事業大臣

下院議長
前職は弁護士。退役軍人。

アブルッツォでのファシズム運動を指導し、やがて国政に転じて大臣や下院議長を務めた。エットーレ辞任後の書記長となる。アルド・ヴィドゥソーニが第10代書記長に指名。ラクイラ
(アブルッツォ州)
アルド・ヴィドゥソーニ(イタリア語版)
(1914-1982)1941年12月26日 - 1943年4月19日

党青年団指導者
前職は弁護士。

第一次世界大戦を経験していない青年党員から、27歳の若さで書記長に抜擢された。カルロ・スコルツァが第11代書記長に指名。フォリアーノ・レディプーリア
(フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州)
カルロ・スコルツァ(イタリア語版)
(1897-1988)1943年4月19日 - 1943年7月27日

下院議員
前職は陸軍士官。国家ファシスト党最後の書記長。

ムッソリーニを中心とした国家指導体制への回帰を主張した。ディーノ・グランディらの党内クーデターに反対し、

王党派によって拘束される。パオラ
(カラブリア州)

議席

国民ブロック及び国民リストの議席数を含む

下院
年度票数得票率獲得議席順位+/?備考
1921年1,260,00719.1105 / 535第3党 105FICが国民ブロックから37議席を分配される
1924年4,653,48864.9375 / 535第1党 270PNFが国民ブロックを統合
1929年8,517,83898.4400 / 400第1党 25PNF以外の全政党を非合法化
1934年10,043,87599.8400 / 400第1党?選挙後に下院を廃止

党史
ファシスト党誕生の背景詳細は「第一次世界大戦」を参照

第一次世界大戦後の混乱がつづくイタリアでは、戦勝国でありながら、期待していたフィウーメなどの領地が得られず、ヴェルサイユ体制に強い不満をもつ人も少なくなかった。また、資源に乏しく経済基盤の脆弱であったイタリア王国は、その戦費を外債に依存したため財政難にみまわれた。経済危機も深刻で、大量の失業者が生まれ、ロシア革命の影響も受けて、労働者ストライキや農民の小作争議がひろがり、社会主義勢力が拡大した。物資不足から激しいインフレーションも起こって民衆の生活を直撃した。あたたかい歓迎と安定した暮らしを夢みてイタリアのために戦った兵士たちは、経済混乱にあえぐ祖国に帰り、新たな失業者の一群、余計者の集団として、むしろ冷たい視線を浴びることとなった。

折から1919年から1920年にかけては、労働者のストライキや農民の小作争議が頻発して社会不安が増加していたのである。
「イタリア戦闘者ファッシ」から政権獲得まで詳細は「イタリア戦闘者ファッシ」、「ローマ進軍」、および「サヴォイア家」を参照

第一次世界大戦前のベニート・ムッソリーニは、イタリア社会党内では正統派マルクス主義というよりはジョルジュ・ソレル思想に影響を受けており、党主流の社会改良主義的な路線とは一線を画し、その批判者として頭角を現した。1912年には社会党執行委員に選ばれ、党の重要な日刊紙「アバンティ!(Avanti!、「前進」 )」の編集長にまでなっていたが、1914年夏、第一次世界大戦がはじまると、伝統的な平和主義から「イタリアの絶対中立」を唱えた党の方針に反対、戦争とその帰結にこそ革命の展望があるとする立場から11月「ポポロ・ディタリア (Il Popolo d'Italia )」[注 3]を創刊して、イタリアが英仏協商側に立って参戦すべき[注 4]との意見を主張してイタリア社会党を除名された。また、14年末からはイタリア各地でうまれた参戦主義者団体「革命行動団」の指導者となった。


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