ファシスト党
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ファシズム運動を掲げ、左右の超越を志向した独裁体制を構築した。
概要

PNFは第一次世界大戦で政治家ベニート・ムッソリーニらが設立した政治団体「革命行動ファッショ(英語版)」に起源を持ち[16]民族主義による社会国家国民の団結(ファッシ、古代ローマのファスケスを語源とする)を説き、民族統一主義未回収のイタリア)に基づいた参戦論を主張した。イタリア王国が大戦参加を決めるとムッソリーニらは志願兵として従軍して、塹壕戦を通じた愛国心や戦友愛の高揚を経験した。

復員後、ムッソリーニは「革命行動ファッショ」の精神を引き継いだ「イタリア戦闘者ファッシ」(FIC)を設立した。同団体を通じて独自の政治理論であるファシズム: Fascismo、日: 結束主義)を掲げて社会主義及び民主主義リベラリズムへの猛烈な批判を展開した。彼の異端的な思想はイタリア・ナショナリズム(英語版)、サンディカリズム(組合主義)、コーポラティズム(共同体主義)、アナーキズム(無政府主義)、リビジョニズム(修正マルクス主義)の運動家達に影響を与えた。初期段階のファシズムは広範な支持を得られず、1919年の総選挙での議会進出を果たせなかったが、ジョヴァンニ・ジョリッティ首相との協力や民兵組織「行動隊(イタリア語版)」による直接行動を駆使して段階的に影響力を高めていった1921年5月15日、『国民ブロック』にFICが参加して代議院に議席を得ると、同年11月9日にファシストの政治運動は国家ファシスト党(Partito Nazionale Fascista、PNF)として組織化された。

PNFのイデオロギーであるファシズムは多様な思想を習合させた独特の運動であり、推進された政治主張も多岐にわたっている。まず民族主義(イタリア・ナショナリズム)を重視し、民族統一主義による領土拡大を提唱した[17]。父祖である古代ローマへの顕彰も含め、領土主張は生存圏理論の一種である地中海世界全体での領土拡大を目指す「不可欠の領域(イタリア語版)」へ拡張され、イタリア帝国が形成された[18]。経済政策ではサンディリカリズムとコーポラティズムが影響を持ち、国家の指導下で企業体と労働組合が協調する事を目指し[19]階級闘争を否定して階級協調を理想とした[20]自由主義リベラル)に対しては明確な敵対姿勢を見せたが、反動主義ではなかった[21]。また民族主義の観点から共産主義とも敵対したが[22]ジョゼフ・ド・メーストルに代表される過激な保守主義にも反対した[23]

1922年10月31日ルイージ・ファクタ政権へのクーデターであるローマ進軍が成功してムッソリーニ政権が樹立され、PNFは連立与党の中心となった。1924年4月6日、旧国民ブロックをPNFに統合した上で新たな選挙連合「国民リスト」(Lista Nazionale、LN)を立ち上げ、60%以上の得票を得て議会で多数派を形成した。選挙勝利後も多党制の枠組みを維持していたが、反ファシスト運動との激しい対立(イタリア語版)を経て、1924年12月31日にムッソリーニは独裁制への移行を宣言して首席宰相及び国務大臣(イタリア語版)に就任、政府権限を大幅に強化した。これに合わせてPNFも一党制に向けて動き、党の諮問機関であるファシズム大評議会を国家の最高機関に定めた上でPNF以外の全政党へ解散命令を出し、1929年3月24日の総選挙で全議席を獲得してイタリアにおける一党独裁が確立された。

PNFは未来に向けて現代化されるイタリアが、同時に伝統に基づいた愛国心と団結を高める事によって社会的繁栄を迎えると看做していた[24]。規律を重視し、ストライキ等の抵抗的な労働運動は弾圧されたが、この時期、鉄道等は時刻表通りよく運行されていたという。PNFによるファシズム思想に基いた社会改革は第二次世界大戦への参戦によって水泡に帰し、ムッソリーニ幽閉後の1943年7月27日に解散を命じられた。1943年9月18日、ナチスの要請を受けてムッソリーニはPNFの後継政党として共和ファシスト党(RNF)を結党し、イタリア社会共和国(RSI)の政権与党となった。

1945年4月28日、RSI政府の崩壊とムッソリーニの死によりRNFは消滅した。

大戦後に成立した現在のイタリア共和国議会では民主主義に対する脅威として、後継組織である共和ファシスト党(RNF)と並んで再結党が禁止されている("Transitory and Final Provisions", Disposition XII)。一方でRNFの元党員らを中心にネオ・ファシズム政党「イタリア社会運動」(MSI)が結党され、国民同盟自由の人民イタリアの同胞などを通じて現代でも思想は引き継がれている。2022年にはイタリアの同胞党首のジョルジャ・メローニイタリア首相に就任した。
組織
象徴

党歌:『ジョヴィネッツァ』 (Giovinezza


党章・党旗等


党章(党名、三色旗ファスケス

党旗(黒旗、ファスケス)

制服などに用いられた古代ローマの鷹紋章

スローガン

Il Duce! (我らがドゥーチェ)

Viva il Duce! (ドゥーチェ万歳)
[25]

Eja, eja, alala! (万歳!万歳!万歳!)

Viva la morte (犠牲を払え)

Credere, obbedire, combattere ("信じ、従い、戦う")

Libro e moschetto - fascista perfetto (書物と銃がファシストを作る)

Tutto nello Stato, niente al di fuori dello Stato, nulla contro lo Stato (国家こそ全て、国家の外には何もない)

Se avanzo, seguitemi. Se indietreggio, uccidetemi. Se muoio, vendicatemi (我らが進むなら、汝も続け。我らが退けば、汝が殺せ。我らが死ねば、汝が復讐せよ。)

Me ne frego (何も気に留めず)

La liberta non e diritto e un dovere (自由は権利ではない、義務である)

Noi tireremo diritto (我らは進む)

La guerra e per l'uomo, come la maternita e per la donna (男の闘争性は、女の母性と同じである)[26]

指導体制
合議機関

1926年、1938年に制定された党規約[27]によると、ファシズムの指導は「ドゥーチェの指導の下、ファシズム大評議会の示した方針により、中央及び地方の合議機関を通じて行われる」とされていた。全国規模の合議機関は全国評議会と全国指導部、地方においては県ごとに置かれる県連合とその指導部であった。県連は戦闘者ファッシをまとめる存在であると定義されていた。
役職
指導者詳細は「ドゥーチェ」および「総統#イタリア」を参照

氏名
(生没年)肖像任期兼務背景退任理由出生地
ベニート・ムッソリーニ
(1883?1945)1921年11月9日 ? 1943年7月27日

首席宰相及び国務大臣(国家指導者)

首相内務大臣外務大臣

大元帥

党大評議会議長

党機関紙編集長
党の創設者としてファシズム運動の精神的指導者に位置付けられる。反枢軸国勢力のクーデターによって幽閉。

後に救出され、イタリア社会共和国及び共和ファシスト党指導者となる。プレダッピオ
(エミリア=ロマーニャ州)


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