「美術」という翻訳を正式に制定したのは黒川真頼(東京帝国大学教授・文学博士)である。中川一政の著書によると、中国から来た文字である「美」という文字は「羊」と「大」を繋げた文字であり、羊は生贄として神様に捧げる御馳走という意味で、羊の大きく太っているのはうまいが文字の由来であり、古今東西にあたって名人、天才が生んだ作品が発生する感銘は美という言葉で縛り切れないことから、黒川真頼はこの「美」を使うのが不満だったが、「今暫くこの字をあてておく」と黒川が但し書きしたと著書に記している[2][3][4]。黒川は当時文部省で『語彙』の編纂が企てられたことから、後の辞書編纂の基礎をつくり、『史略考証』三巻を編集、ローマ字での国語綴輯、ウイーン万国博覧会の「出品差出勤請書」添付の出品規定を作っていた。
その後「美術」は、ファインアートのうち視覚芸術に限定して使われ、これからはみだした、詩、音楽、演劇なども含むファインアートに相当する日本語としては「芸術」が使われるようになった。
ファインアートは18世紀のヨーロッパで確立したものなので、通常はルネッサンス以降の西洋美術にのみ使用される。このため、この用語を地域や時代を越えてそのまま適用するには問題がある。たとえば、昔の日本の絵師達の作品はほぼすべてが障壁画であり、これらは室内装飾としての役割を持つため、実用性から独立した美術としてのファインアートの定義には当てはまらないことになる。また、東洋美術では書画として書も美術品のひとつと扱われるが、書は欧米の言うファインアートにはあたらない[要出典]。西洋の定義に当てはめると、東洋には実用品から遊離した美術品と言えるものはほとんどない[要出典]。絵巻物は西洋の挿絵に相当し、障壁画や屏風絵は家具の一部なので、西洋の定義ならほとんどが応用美術、工芸に属する。けっきょくウィーン万国博覧会へは、絵付けされた陶磁器を主力に出品した。工芸かファインアートか、その狭間を狙ったことになる。ファインアートたる美術と、応用美術たる工芸の区分を明治の日本は認識することになるが、上記の事情から、日本では美術と工芸を纏めて扱うことが多くなる。
脚注[脚注の使い方]^ ⇒The Project Gutenberg EBook of Encyclopaedia Britannica. 10 (11 ed.). (1911). ⇒http://www.gutenberg.org/files/35561/35561-h/35561-h.htm#ar209
^ 中川一政『近くの顔』134頁
^ 『中川一政画集』第十巻283頁「美術」の命名, ,朝日新聞社,1967.
^ 『黒川真頼全集』第3美術篇,工芸篇,8?9頁「日本美術由来」,国書刊行会,明治43. 国立国会図書館デジタルコレクション
関連項目
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