ファイティング原田
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2010年の任期満了を以って7期21年務めた日本プロボクシング協会会長を勇退(後任は大橋ジム・東日本協会会長大橋秀行)。以降は協会顧問に就任する。世界チャンピオン経験者により同年に発足されたプロボクシング・世界チャンピオン会では最高顧問に就任。

2016年11月、旭日小綬章を受章[4]
主な戦績

1960年2月21日:4回TKO勝ちでプロデビュー。デビュー時の階級はフライ級であり、東日本新人王戦を順調に勝ち上がったが、準決勝において、同門でかつ親友でもある斎藤清作と当たることになってしまった。結局、斎藤が「負傷」と言うことで出場を辞退した。後に、「たこ八郎」の名で、コメディアンとして人気者になった斎藤とは、その後も長く交友が続き、死の直前にも電話を受けた[5]。この辞退に関して、たこの没後、原田は「他の人の前で何と言ったかは知らない。しかし自分の前では、ただの一度も恨み言は言わなかった」と語っている。

1960年12月24日:東日本新人王決勝戦。やはりKOパンチャーとして売出し中の海老原博幸(金平)と対戦。序盤は原田のラッシュに、海老原が2度のダウンを喫したが、終盤には、海老原が後に「カミソリ・パンチ」と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き6回判定勝ち。この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。

1962年5月3日:ノンタイトル10回戦に判定勝ち。デビュー以来25連勝を達成。海老原博幸、青木勝利とともに次代のホープとして「フライ級三羽烏」と称された。

1962年10月10日:世界フライ級王座に初挑戦。ポーン・キングピッチタイ)を11回2分50秒KOで破り、19歳で世界王座を獲得した。(ポーン・キングピッチ 対 ファイティング原田戦

1963年1月12日:ポーンとの再戦に判定で敗れ王座陥落、バンタム級に転向。

1963年9月26日:ノンタイトル10回戦で世界3位の強豪・ジョー・メデル(メキシコ)に6回TKO負け。

1964年10月29日:ノンタイトル10回戦で東洋王者・青木勝利に3回KO勝ちし、世界再挑戦への道を開く。

1965年5月18日:世界バンタム級王座に挑戦。「黄金のバンタム」エデル・ジョフレ(ブラジル)に15回判定勝ちし、王座奪取。

1965年7月28日:世界タイトル獲得後の最初の試合。世界バンタム級8位斎藤勝男(暁)とのノンタイトル戦で12回判定勝ち。原田は減量苦で動きが鈍く、スピーディな斎藤に苦戦し、11回を終えたところでほぼポイントは互角。しかし、最終12回にロープ際に後退しながら右アッパーをカウンターしてダウンを奪い、そのポイントがモノを言った。

1965年11月30日:初防衛戦。リヴァプール出身のアラン・ラドキンイギリス)を15回判定で破る。

1966年5月31日:2度目の防衛戦。前王者ジョフレを15回判定で下し防衛成功。

1967年1月3日:3度目の防衛戦。かつてKO負けしたジョー・メデルとの再戦となるこの試合、前回メデルのカウンター攻撃に倒された原田は、足を使って、メデルのカウンターの射程圏外に出て、攻勢時には、身体を密着させてラッシュし、カウンターを封じた。原田の一方的なポイントリードで迎えた最終15回、メデルの左フックのカウンターが遂に命中し、一瞬ふらりとしたが、クリンチで何とか逃げ切り王座防衛。

1967年7月4日:4度目の防衛戦。ベルナルド・カラバロ(コロンビア)を15回判定で下し王座防衛。

1968年2月27日:5度目の防衛戦。当時19歳の無名挑戦者ライオネル・ローズオーストラリア)に15回判定負けし王座陥落。バンタム級でも原田の減量苦は限界を超し始めており、以降フェザー級に転向。

1969年7月28日:WBCフェザー級王座に敵地シドニーで挑戦。王者・ジョニー・ファメション(オーストラリア)から3度ダウンを奪ったにもかかわらず15回判定負け。リングサイドで観戦していたライオネル・ローズも認める露骨な地元判定であった。

1970年1月6日:東京都体育館にてファメションに再挑戦するが14回1分9秒KO負け。この試合を最後に引退した。

世界ボクシング殿堂入り

世界ボクシング殿堂入りを果たした、最初の日本ボクサー(以降、ジョー小泉本田明彦と続く)。

なお、原田は『国際ボクシング名誉の殿堂博物館』入りも果たしている。
エピソード

世田谷区立東深沢小学校の同級生にエーエム・ピーエム・ジャパン元代表取締役社長の秋沢志篤[6]

百田尚樹が綴ったノンフィクション『「黄金のバンタム」を破った男』を題材に、現役時代の原田の試合を中継していたフジテレビが、市原隼人主演で『「黄金のバンタム」を破った男 ?ファイティング原田物語?』としてテレビドラマ化された[7]

日本人初の女子アマチュア世界選手権銅メダリストの和田まどかは高校まで原田のジムで練習をしていた[8]

テレビドラマ出演

プレイガール 第96話「男殺し やわ肌仁義」(1971年、12ch / 東映

変身忍者 嵐 第31話「妖怪人形! ドーテムの呪い!!」(1972年、MBS / 東映)[注釈 1]

刑事くん 第3部 第8話「ハートの総監賞」(1973年、TBS / 東映)

傷だらけの天使 第18話「リングサイドに花一輪を」(1975年、NTV / 東宝

家なき子 第26話「炎の脱出」(1975年、TBS / 松竹) - 特別出演

バーディー大作戦 第49話「助けて! 浴室裸体殺人事件」(1975年、TBS / 東映)

非情のライセンス 第2シリーズ 第35話「兇悪の裏帳簿」(1975年、NET / 東映)

噂の刑事トミーとマツ 第1シリーズ 第32話「ああ! トミマツの4回戦ボーイ」(1980年、TBS / 大映テレビ

ディスコグラフィー
シングル


ボクシング小唄

1966年5月、
キングレコード、BS-408

作詞:郡司信夫、作曲:鶴田全夫、編曲:小町昭、コーラス:サニー・トーンズ

1965年発売の牧伸二のソノシート「牧伸二だよ!!」に収録された曲のカバー。牧の歌唱版とは一部の歌詞が異なる。

B面は西川一也の「恋のタイトルマッチ」。


獲得タイトル

国内タイトル

第17回東日本
フライ級新人王

第7回全日本フライ級新人王

世界タイトル

世界フライ級王座(防衛0)

WBA世界バンタム級王座・WBC世界バンタム級王座(防衛4)

※バンタム級の両王座はWBA・WBC未分化の時期における同一の王座である。
演じた俳優

渡嘉敷勝男(昭和のチャンプ?たこ八郎物語?、1990年3月5日)

市原隼人「黄金のバンタム」を破った男?ファイティング原田物語?、2014年2月22日)

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 時代劇作品であるにも関わらず、演者そのままの役名で出演。少林寺拳法指南という設定。

出典^ 編集・ボクシングマガジン編集部『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』2004年、36頁。
^ 幻の3階級制覇 40年前の激闘 福井新聞 2009年7月28日閲覧
^ 朝日新聞東京版 1972年7月5日朝刊22頁


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