ピー・プロダクション
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『マグマ大使』は、円谷特技プロの『ウルトラマン』よりも2週間早く開始され[1]、日本初の連続カラー特撮番組となり、両作品は空前の怪獣ブームを支える両輪となった。

同年、大阪電通からの依頼で、『ハリスの旋風』をテレビアニメ化[2][1]。高視聴率を得、大人気作品となる。ピープロは以降、アニメ番組と特撮番組両方を手がけていく。

1967年(昭和42年)、東急エージェンシーの要請により『怪獣王子』の企画・特撮全般を担当[1]。続く特撮新番組として『豹マン』、『ゴケミドロ』のパイロットフィルムを企画・制作[4][1]。『豹マン』はフジテレビ側が『怪獣王子』の後番組として決定し、「週刊少年マガジン」誌で特集連載までされたものの、その後の局の編成事情で結局放映は実現されなかった。『ゴケミドロ』の企画は翌年、松竹で特撮映画『吸血鬼ゴケミドロ』として実現した[4]

1968年(昭和43年)、労働争議が起こり、第一スタジオを売却[1]。失火により社屋を全焼する[1]。以後、契約社員制を採る[1]。自社製作の特撮作品は途絶えるものの、この時期、『時代活劇シリーズ 風』や、前述の映画『吸血鬼ゴケミドロ』といった他社作品の特撮を下請け製作する[6]

同年8月、映像企画の強化のため、「P・I・C(ピープロ・アイディア・センターの略称)」を設立[1]

1969年(昭和44年)、特撮ドラマ『俺は透明人間!』(白黒・13本)を製作するもお蔵入りとなり、翌年になって放送された[1]

1971年(昭和46年)1月2日、特撮テレビ番組『宇宙猿人ゴリ』を放映開始[1]。人気作品となり、円谷プロの『帰ってきたウルトラマン』や東映の『仮面ライダー』に先駆け「変身ブーム」の立役者となった。

同年、ファンクラブ「怪獣友の会」を発足[1]。機関紙や撮影会を運営しながら、1974年(昭和49年)まで続けられた。のちのビデオショップに繋がる試みである。

1972年(昭和47年)、特撮変身時代劇という、異色の作品『快傑ライオン丸』を製作[1]。子ども達の間にチャンバラブームを再燃させる。また、怪獣アトラクションショーの企画・運営を行う。

1973年(昭和48年)、アトラクションショーに合わせ、タレント養成劇団「河童」を設立[1]。(その後解散)

1975年(昭和50年)、『冒険ロックバット』終了後、テレビ企画が途絶える。事実上、今作がうしおそうじの携わった最後のテレビシリーズとなった。これ以降、営業内容をアトラクション運営などにシフトする。

1980年(昭和55年)、数年越しの企画を元に日仏合作のテレビ特撮『シルバージャガー』のパイロットフィルムを製作するも、実現せず[1]

1983年(昭和58年)、会社を仕切り直して事務所を世田谷から荻窪に移転。同所に「ビデオショップ ピープロ」を開店[1](後述)。1989年、閉店[1]

2004年(平成16年)3月28日、うしおそうじ死去[1]

2006年(平成18年)、ライオン丸シリーズのリメイク版『ライオン丸G』を制作[1][注釈 3]

2010年(平成22年)、1974年制作の『電人ザボーガー』を35年ぶりに劇場用映画として復活させると発表。日活・キングレコード製作でピープロは企画・原作、監修(鷺巣詩郎)として参加。総製作費3億円をかけ、2011年秋公開。
エピソード
ピープロと『ビッグX』

1964年(昭和39年)、TBSからピープロに、手塚治虫原作の『ビッグX』制作の企画が持ち込まれた[1]。当時で3000万円の支度金を用意するという、かなりの好条件でのオファーだったが、アニメ組合側が「『0戦はやと』との並行制作は無理」として反対し、実現しなかった[1]。次に『ビッグX』の企画を持ち込まれた国際放映はこれを機に藤岡豊を中心に東京ムービーを設立している。

1966年(昭和41年)、ピープロは実写特撮ドラマ『マグマ大使』を制作するが、当初手塚治虫はうしおそうじ側に、実写化作品候補として『マグマ大使』と『ビッグX』を提示していた。
幻のカラーTVアニメ『宇宙船レッドシャーク』

1965年(昭和40年)、ピープロとTBSとの企画で横山光輝原作の『宇宙船レッドシャーク』のアニメパイロットフィルムがカラーで製作された[4][1]。当初から海外セールスを前提にしたもので[4]、アメリカでの放映の後、日本で放映する構想だった。放送が実現していれば、『ジャングル大帝』よりも早い連続カラーテレビアニメとなっていた[4][1]

1980年代に発売されたピープロ関連のビデオソフトには『クラブ君の冒険』『豹マン』『かみなりゴロッペ』等のパイロットフィルムの映像が収録されたものがあったが、本作の映像はビデオソフトに一切収録されていない。2002年のインタビューでは、うしお自身が本作に関して「この『レッドシャーク』は今ウチにないんだけどさ。」「ない。どっかへ、貸しちゃったんだな。」と話しており、フィルムが手元に無いことを明らかにしている[7]。1978年発行の月刊OUT増刊「ランデヴー」第5号には、このパイロットフィルムを接写したフィルムストーリーが掲載されており、この時点ではフィルムが現存していたとみられる。
ピープロ版『宇宙エース』

1966年(昭和41年)、タツノコプロの『宇宙エース』第1話が、アメリカの代理店からの依頼でピープロによってカラーリメイクされている[1]


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