ピーター・ガブリエル
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主な沿革ソロ転向初期 (1978年)(1986年)

1975年、音楽性及びプライベートな理由(結婚や妻の出産など)でグループを脱退し、音楽活動を一時休止。その後、1977年にソロ・アーティストとして活動を再開した。1977年の「ソールズベリー・ヒル」[5]は、後年にクラシック・ロック・ラジオでオンエアされるようになった。ソロ・アルバムはロバート・フリップトニー・レヴィンケイト・ブッシュ等の参加もあり、作品を重ねるごとにジェネシス色を払拭していった。

ピーター・ガブリエル III』(1980年)や『ピーター・ガブリエル IV』(1982年)といったアルバムでは、当時の最新シンセサイザー民族音楽の導入によって独自の音楽世界を構築した。特に南アフリカ共和国の民族運動家、スティーヴ・ビコのことを歌った『ピーター・ガブリエル III』収録の「ビコ」は代表曲のひとつになった。

R&Bの要素を取り入れた1986年のアルバム『So』は世界的ヒットを記録。シングル・カットされたブルー・アイド・ソウル曲「スレッジハンマー」は、プロモーション・ビデオMTV等で話題を呼んでヒットした。同曲は、ジェネシスの「インヴィジブル・タッチ」を1位から引き摺り下ろして、1986年7月26日付のビルボード・シングルチャートで全米ナンバー1に輝いた[6]。彼にとって、これが唯一の全米ナンバー1となった。また1987年には「ビッグ・タイム」もヒットしている。

映画サウンドトラック制作にも関わっており、1980年代には『バーディー オリジナル・サウンドトラック』(1984年)や『パッション』(1989年)などのアルバムを発表している。1990年には、ベスト・アルバム『シェイキング・ザ・トゥリー』を発売。1992年、6年ぶりのオリジナル・アルバム『Us』を発表。彼は1993年に、やはりブルー・アイド・ソウル曲の「スティーム」をヒットさせた。『Us』発表後に行われた1993年の「シークレット・ワールド・ツアー」では、劇作家・俳優・映画監督のロベール・ルパージュを演出に起用し、テクノロジーと演劇性が融合したステージを披露した。ツアーの模様はライブ・アルバムやビデオ(現在はDVD版)で発売されている。

2000年にはイベントのサウンドトラック・アルバム『OVO』、2002年には映画『裸足の1500マイル』のサウンドトラック『LONG WALK HOME』を制作している。2002年に久々の新作『UP』を発表。その後、2本のワールドツアー「グローイング・アップ・ツアー」と「スティル・グローイング・アップ・ツアー」を開催している。

2006年トリノオリンピックの開会式では、オノ・ヨーコのスピーチを引き継いでジョン・レノンの「イマジン」を披露した。

2008年アニメ映画ウォーリー』の主題歌「ダウン・トゥ・アース」を発表。第66回ゴールデングローブ賞主題歌賞と第81回アカデミー賞歌曲賞にノミネートされ、第51回グラミー賞では最優秀歌曲賞(映画・テレビ部門)を受賞した。2010年、ジェネシス名義で「ロックの殿堂」入り。8年ぶりのスタジオ・アルバムとなるカバー・アルバム『スクラッチ・マイ・バック』をリリース[7]

2011年、自身の楽曲にオーケストラ・アレンジを施したセルフカバー集『ニュー・ブラッド』をリリース[8]2014年、ソロ名義で「ロックの殿堂」入り[9]

2023年12月、21年ぶりのオリジナル10thアルバム『i/o』をリリース。1986年の『So』以来、37年ぶりに全英チャート1位を記録した[10]
ワールド・ミュージックへの傾倒リアル・ワールド・スタジオの室内ピーターとWITNESSプロジェクトの面々 (2008年)「リアル・ワールド・レコード」も参照

ワールドミュージックに傾倒していることでも知られ、1982年以来、「ウォーマッド」(WOMAD, World of Music, Arts and Dance)フェスティバルを主宰し、ワールドミュージックの普及に貢献している。初回こそ商業的に大失敗して大赤字を出したが、現在では、世界最大規模のワールドミュージック・フェスティバルとして知られている[11]

さらにウィルトシャー州ボックスにリアル・ワールド・スタジオを建設すると共に、1988年にはワールドミュージックのレーベル、リアル・ワールド・レコードを立ち上げている。これらの活動によって、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンユッスー・ンドゥール等のアジアアフリカの多くのミュージシャンをヨーロッパ世界に紹介するのに大きな役割を果たした。
多方面への活動展開

また、音楽の他にもメディアアートなど最新の技術を取り入れた創作活動に興味を持っていたガブリエルは、プロモーション・ビデオ製作にも積極的で、そこに曲の宣伝目的以上の芸術的価値を見出していた。アニメーションを多用して作られた前述の「スレッジハンマー」(スティーヴン・ジョンソン監督)のプロモーション・ビデオは評判を呼び、1987年MTVミュージック・ビデオ・アワーズのベストビデオに選ばれている。同じ年には、メディアアートの世界的祭典であるアルス・エレクトロニカにおいてコンピュータ・ミュージック部門で最初のゴールデン・ニカ賞(グランプリ)を受賞している。

1993年にはCD-ROMとして公開されたマルチメディア作品『エクスプローラ1』を、1996年には『イヴ』を発表した。その他にも、いち早くオンデマンドの音楽配信会社「OD2」の設立に加わったり、iTunesでプレイリストを自動作成するためのアプリケーション「The Filter」の開発に携わるなど、新しい技術にも率先して関わり続けている。
人権・政治活動

人権活動にも積極的に携わっており、1980年代にはアムネスティ・インターナショナル支援のいくつかのコンサートに率先して参加したほか、1992年にはビデオと通信メディアを利用して人権侵害を監視しようというWITNESSプロジェクトをリーボック人権基金と共に設立している。2004年には、デジタル時代におけるミュージシャンの立場を守るための組合『MUDDA』をブライアン・イーノと共に立ち上げている。

政治的活動にも積極的であり、1992年、血の日曜日事件20周年に際しては犠牲者の無実の承認や責任者の追求などを求め、労働党国会議員や映画監督ケン・ローチなど他の左派の著名人とともにロンドンでの抗議デモを支持した[12]1997年の総選挙では、「当時のトーリー党〔=保守党〕政権を倒すことに貢献したかったので」としてトニー・ブレアが率いる労働党を支援し[13]、労働党への献金リストにも名を連ねている[14]


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