ピンク映画
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主な監督としては若松孝二山本晋也渡辺護小林悟新藤孝衛糸文弘小川欽也小森白湯浅浪男南部泰三らがいた[20]

日本では「ピンク」という色名が用いられているが、アメリカでの類似映画は、フィルムを青く着色していたことから「ブルーフィルム」と呼ばれる。日本で「ブルーフィルム」とは、温泉街などでの上映会に提供されていた8ミリまたは16ミリフィルムによる短編ピンク映画(その多数は無修正映画)を指すことが多い。
起源と歴史

1950年代までに、浅草などの都市部の映画館で半ば大っぴらに上映されていたブルーフィルムが上映禁止となった[21]。こうした客層のニーズを満たすため、また1950年代から1960年代に、テレビの普及で職を奪われたニュース映画教育映画関係者たちが糊口を凌ぐため、お色気をテーマにした短編・中篇映画が盛んに制作されるようになり、これを同じく衰退しつつあった小規模なニュース映画専門館に供給、上映されるようになった。新高恵子も証言しているが、初期はピンクと言っても下着までで、胸も尻も出せない文字通り「お色気」作品であり、激しい性描写にはほど遠い代物だった。また、作品としての質も高くなかった。

しかし、1961年の新東宝倒産が一つの転機となった。新東宝の経営を追われた大蔵貢が大蔵映画を設立する。1962年に協立映画製作、大蔵映画配給の『肉体の市場』が公開された。「成人指定」「独立プロ製作」「劇映画」という3つの要素を満たした最初の作品として、この『肉体の市場』がピンク映画第1号とされている[22]

鈴木義昭は1963年に日本のメジャー映画会社である東映が製作した『五番町夕霧楼』と日活の『にっぽん昆虫記』がピンク映画第一号と論じている[23]。『別冊ニュース特報』1964年6月号(双葉社)『氾濫する映画の新しいエロチシズム』に「不況になってエロで当たった。最近の傾向のはしりは『五番町夕霧楼』と『にっぽん昆虫記』の二つだ」と書かれているという[23]。この二作は作品的にも高い評価を得たが[23]、興行的な成功はエロチック・シーンによるところが大きかった[23]。その成功に目をつけた邦画五社は、競い合いながらエロチシズムを売りものにした映画を量産した[23]

この頃、ピンク映画という言葉はなく、「お色気映画」などとも呼ばれていたというが、夕刊紙内外タイムス」文化芸能部の記者で、後に映画評論家の村井實(村井実)が1963年に関孝司監督、沼尻麻奈美主演の映画である国映配給の『情欲の洞窟』を取材した際、「おピンク映画」とこれらの作品群を呼ぶ造語を作り、その後「お」が外れてピンク映画という言葉が誕生したと言われる[24]

また、新東宝関西支店の有志が新東宝興業(現在の新東宝映画)を設立し、大蔵映画と新東宝興業のピンク映画界の2大会社が成立する。また、一般の劇映画を経験した若松孝二などの監督やスタッフが、次々とピンク映画に参入してきた。特に若松は「若松プロ」を設立し、ピンク映画と言うよりは問題作と言われる作品を発表した。そして1965年にピンク映画の歴史上、最も大きなニュースがもたらされた。若松監督[1] の『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品されたのである。これは1960年代という激動の時代には、もはや石原裕次郎主演のようなエンターテイメント系の凡作ではなく、アート系のラジカルな映画を受け入れる用意が出来ていたことを示していた。

1965年の映倫審査の成人映画233本中、大手5社(東映、東宝、日活、大映、松竹)は17本。残りが概ねピンク映画と作品数急増[25]。その一方で業界の淘汰・再編も進み、1960年代中盤には新東宝興業・大蔵映画などは共倒れを防ぐため全国各地の成人館を一般映画同様、チェーン化していった。1970年には日活ロマンポルノの一定の成功もあって、東映セントラルフィルム東活(事実上の松竹系)、ミリオンフィルム(後のジョイパックフィルム、現在のヒューマックスシネマ)といったメジャー系のピンク映画製作会社も出現した。1968年の段階でピンク専門館は約200館。1970年には220館。当時の東映館330館には及ばないものの、東宝160館を大きく抜き、大映、松竹専門館にダブルスコアをつける数字となった[26]。これにより第六系統出現とも報道された[26]

1980年代前半はピンク映画の最盛期であり、これら制作会社が多数発表する一方で、ゲイ・ポルノなども制作が開始される。しかし、1980年代後半はアダルトビデオに市場を奪われ衰退、さらにピンク映画に対する映画業界による自主規制などからメジャー系制作会社は次々に撤退した。1988年のロマンポルノの撤退も含めて、1990年代には市場が大幅に縮小した。

21世紀に入り、日本の映画産業もデジタル化が進む中、フィルムによる撮影とアフレコによる録音に拘ったピンク映画も、唯一の頼み綱の富士フイルムが映画用のフィルムの生産中止を受けたことにより、現存するピンク映画製作会社は全てデジタルに移行している。しかし縮小市場の中でも存続の可能性を求め、「異業種との共同出資」「一般用R15+版と成人用R18+版の2バージョンを作る」といった試みが為されている。
表現の特徴

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出典検索?: "ピンク映画" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年1月)

ピンク映画は文字通り、性描写を第一義とする映画である。しかし、『肉体の市場』が制作された1960年代前半は、女優が映画で乳房を見せるのは御法度で、ベッドシーンで男女が腰を絡める描写も撮影できなかった[27]。同作の性描写は現在(2022年)からするとかなり大人しいものだが、封切られた直後に警視庁公安部から摘発された[27]。しかしこの摘発が結果的に世間の話題となり、再編集版『肉体の市場』は大ヒットした[27]

初期のピンク映画は基本的に全編モノクロ映像だったが、1964年の小川欽也監督作品『妾』で初の“パートカラー”が採用された[27]。濡れ場シーンになるとカラー映像に切り替わるというこのパートカラーは、以降ピンク映画の売り物となった[27]

上記のように長らく性描写に対する規制が強かったこと、監督やスタッフに映画業界関係者が少なからず存在すること、大学や映画専門学校出身の作家(監督、脚本家)やスタッフ、俳優がそもそも映画業界志望であって一般映画への憧憬が強かったことなどから、性描写に力点を置きつつも一般映画としての質を望むことも多かった。

このため、欧米のポルノ映画ではあまり省みられない映画としての評価と、性描写や女優の美貌などポルノとしてのクオリティが共存する日本独特のものとなった。

ピンク映画は低予算、早撮りを特徴としており、一般的な作品の場合300万円程度の予算で撮影期間は3日ほど。したがって、多くの場合には2晩徹夜で撮影をし続ける。かつては専用スタジオを用いた撮影も一部で行われていたが、一般的にはオールロケが主流である。限られた予算の補助のために、ロケとして用いられたホテルや飲食店のクレジットを映画の内部に表示するなど、苦心の策も用いられたという。また、この「300万円・3日」という数字は、1960年代から物価が大幅に高騰した21世紀にまで変わっておらず、特にフィルム使用時代末期の現場は窮乏をきわめた。逆に、初期の現場には(制作会社のピンハネにもよるが)余裕があるケースも存在し、1960年代末に業界入りした浜野佐知は総勢30人近いロケなども体験したことがあるという。

ピンク映画の作風は作家も影響するが、それ以上に影響が強いのが会社側の要求である。一般的に作家側は芸術的・映画的な作風を望むのに対し、会社側は性描写などポルノとしてのクオリティを望むことが多い。このぶつかり合いの中で作品が生まれると言ってよい。

低予算・短期間で、作家性の強い新人を多く起用することからピンク映画は一種のインディペンデントな作品に思われることもあるが、ピンク映画そのものはむしろかつてのプログラムピクチャーの方に性格は近く、このような制限の中で作家側が独自のカラーを出すことになる。またピンク映画は、60分前後の尺に4回ほどの濡れ場のシーンを入れるのが一般的だった[27]。この条件でストーリーを作るには、高い演出力が必要とされた[27]

この「縛り」は会社によってまちまちであり、厳しく条件を要求しアダルトビデオに追随するような作品を求める会社もあれば、作家側に裁量を多く与えている鷹揚な会社もある。作家主義が出やすいのは当然後者であり、ミニシアター映画祭において上映されて「映画」として評価されるのはこのような作品である。


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