当初はブルースのほかにローリング・ストーンズやザ・フーの曲をコピーして演奏していたが、やがて即興演奏やリキッドライトを導入し、独自の道を歩み出す。純粋なブルースを志向していたボブ・クロースは方向性の違いから同1965年中にバンドを脱退し[33]、代わってバレットがリード・ギターを担当することになる。この頃からバレットは精力的に曲作りを始め、オリジナル曲の演奏が次第に増えていった。こうしてバンドはバレットの感性をグループの軸に据えるようになる。
なお、ボブが脱退した際に[26]バンド名を「ピンク・フロイド・サウンド」から「ピンク・フロイド(Pink Floyd)」へと改名した。バンド名を短くしたのは当時のマネージャーの進言によるものであった。
ピンク・フロイドは、サイケデリック・ロック全盛の時代にクラブUFO
前期:サイケ/実験音楽時代(1967年-1969年)
1967年、シド・バレット作のシングル「アーノルド・レーン(Arnold Layne)」でデビューを果たす。歌詞が下着泥棒を示唆するものであったため、ラジオ・ロンドンでは放送禁止に指定されたが、それでも全英20位のヒットとなった。続くセカンド・シングル「シー・エミリー・プレイ(See Emily Play)」(邦題:エミリーはプレイガール)は全英6位のヒットを記録した。
同年、ファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き(The Piper at the Gates of Dawn)』をリリースする。このアルバムをレコーディングしていた時、ちょうど隣のスタジオでビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作しており、メンバーはビートルズのレコーディングの様子を見学した。
当初、ピンク・フロイドはバレットのワンマン・バンドであった。しかし、過度のLSD摂取によってバレットの奇行が目立ち始め、バンド活動に支障をきたし始める。翌1968年には、彼の役割を補う形でデヴィッド・ギルモアが加入し、一時的にフロイドは5人編成となる。バレットはライヴには参加せず、曲作りに専念してもらおうとの目論見であったが、それすら不可能となるほどバレットは重症であった。同1968年の「夢に消えるジュリア(Julia Dream)」[39]はシングルB面に収められたが、人気の一曲である。同曲はロジャー・ウォーターズの作曲である。
バレットは結局、同1968年3月にバンドを脱退した。これによりフロイドは、ウォーターズ、ライト、メイスン、ギルモアの4人で再スタートすることになった。バレット脱退後、当初はシングル向けの楽曲も数曲作ったが、バンドは方針を転換してサイケデリック・ロックから脱却し、より独創性の高い音楽を目指すようになる。また、シングルもイギリスでは1968年発表の「It Would be So Nice」(ライト作)以降はリリースしなくなった。彼らはそれまでの直感的な即興音楽ではなく、建築学校出身の強みを生かした楽曲構成力に磨きをかけていった。こうして発表された同1968年のセカンド・アルバム『神秘(A Saucerful of Secrets)』は、約12分のインストゥルメンタル曲であるタイトル曲「神秘(A Saucerful of Secrets)」を収録している。
この頃バンドはテレビ映画などのサウンドトラックも担当していた。スタンリー・キューブリックがこの年(1968年)に発表した映画『2001年宇宙の旅』では、フロイドに音楽制作の依頼が来ていたという話が伝わっている。明くる1969年に発表された『モア(More)』は、バルベ・シュローダー監督の映画『モア』(主演:ミムジー・ファーマー)のサウンドトラックとして制作された。映画はドラッグに溺れるヒッピーの男女の物語であった。
同1969年発表のアルバム『ウマグマ(Ummagumma)』は、ライブとスタジオ・レコーディングで構成された2枚組であった。当時バンドは精力的にライブ活動を繰り広げており、そのライブ・パフォーマンスの一端が窺える。スタジオアルバムはバンドメンバー4人のソロ作品である。当時バンドはライブで『The Man/The Journey』なる組曲を演奏しているが、この組曲は既に発表されている曲を組み合わせたものであり、『ウマグマ』収録のスタジオ・テイクの一部も組み込まれている。この年には、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『砂丘 (映画)』の音楽も手がけている。
中期:プログレ時代:『狂気』『ザ・ウォール』の成功(1970年 - 1980年)1970年のライブ