ピンク・フロイド
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同1968年の「夢に消えるジュリア(Julia Dream)」[39]はシングルB面に収められたが、人気の一曲である。同曲はロジャー・ウォーターズの作曲である。

バレットは結局、同1968年3月にバンドを脱退した。これによりフロイドは、ウォーターズ、ライト、メイスン、ギルモアの4人で再スタートすることになった。バレット脱退後、当初はシングル向けの楽曲も数曲作ったが、バンドは方針を転換してサイケデリック・ロックから脱却し、より独創性の高い音楽を目指すようになる。また、シングルもイギリスでは1968年発表の「It Would be So Nice」(ライト作)以降はリリースしなくなった。彼らはそれまでの直感的な即興音楽ではなく、建築学校出身の強みを生かした楽曲構成力に磨きをかけていった。こうして発表された同1968年のセカンド・アルバム『神秘(A Saucerful of Secrets)』は、約12分のインストゥルメンタル曲であるタイトル曲「神秘(A Saucerful of Secrets)」を収録している。

この頃バンドはテレビ映画などのサウンドトラックも担当していた。スタンリー・キューブリックがこの年(1968年)に発表した映画『2001年宇宙の旅』では、フロイドに音楽制作の依頼が来ていたという話が伝わっている。明くる1969年に発表された『モア(More)』は、バルベ・シュローダー監督の映画『モア』(主演:ミムジー・ファーマー)のサウンドトラックとして制作された。映画はドラッグに溺れるヒッピーの男女の物語であった。

同1969年発表のアルバム『ウマグマ(Ummagumma)』は、ライブとスタジオ・レコーディングで構成された2枚組であった。当時バンドは精力的にライブ活動を繰り広げており、そのライブ・パフォーマンスの一端が窺える。スタジオアルバムはバンドメンバー4人のソロ作品である。当時バンドはライブで『The Man/The Journey』なる組曲を演奏しているが、この組曲は既に発表されている曲を組み合わせたものであり、『ウマグマ』収録のスタジオ・テイクの一部も組み込まれている。この年には、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『砂丘 (映画)』の音楽も手がけている。


中期:プログレ時代:『狂気』『ザ・ウォール』の成功(1970年 - 1980年)1970年のライブ

1970年には『原子心母(Atom Heart Mother)』を発表。本作は全英1位を記録し、批評家筋からも絶賛されるなど音楽的・商業的に成功を収める。タイトル曲は収録に前衛音楽家のロン・ギーシンを招き、オーケストラ(正確にはブラスアンサンブルにチェロを加えた編成)を全面的に取り入れた23分にわたるロック・シンフォニーである。本作以降、フロイドはプログレッシヴ・ロックを代表するバンドとして認知されるようになる。

続く1971年発表の『おせっかい(Meddle)』は、セールス面では前作『原子心母』に及ばなかったが、バンドが音楽的に大きく飛躍するきっかけとなった作品である。23分を超える大作「エコーズ(Echoes)」が収録されている。バンドはこの「エコーズ」の誕生をもって「初めてバンドがクリエイティビティを獲得した」と認識している。同年8月には初来日し、音楽フェスティバル「箱根アフロディーテ」などでコンサートを披露した。司会は糸居五郎亀淵昭信であった。

同1971年11月に『おせっかい』ツアーが終了すると、バンドは次のアルバム制作に取り掛かった。制作に先立ち、ウォーターズは新作のアルバムのテーマとして「人間の内面に潜む狂気」を描くことを提案する。バンドはこのアイデアを元に組曲を作り上げ、それは翌1972年1月のコンサートから「A Piece for Assorted Lunatics」というタイトルで披露された。これがのちに大ヒットアルバムとなる『狂気(The Dark Side of The Moon)』である。バンドは同年同月からイギリスを皮切りにコンサート・ツアーを開始、同年3月には2回目の来日を果たしている。こちらでも『狂気』の組曲が披露された。

バンドは『狂気』制作と並行して、同年2月下旬から再びバーベッド・シュローダー監督の映画『La Vallee』のサウンドトラックも担当。フランスに赴き、約2週間で『雲の影(Obscured by Clouds)』を完成させた。こちらは全米46位を記録し、ウォーターズ作の「フリー・フォア(Free Four)」がシングル・カットされている。アルバム『狂気』ツアー (1973年5月)

明くる1973年3月、コンセプト・アルバム狂気(The Dark Side of the Moon)』を発表。本作はウォーターズが歌詞を全面的に担当した初めての作品となった。また、フロイドのアルバムに歌詞が掲載されたのはこの『狂気』が初めてであった。発売と同時に、シングル・ヒットした「マネー(Money)」とともに初の全米1位を記録するなど全世界で大ヒットを記録、音楽的にも商業的にも大成功を収める。こうして、ピンク・フロイドは一躍スターダムにのし上がった。その後、『狂気』はビルボードアルバムTOP100に741週間(約15年間)に亘ってランクインし続けることになるが、この記録は現在(※2022年上半期時点)も破られていない。

これ以後、フロイドを取り巻く環境は一変する。コンサートの観客数は大幅に増え、客層も変わっていった。このことはバンドのメンバー、特にウォーターズを大いに苛立たせることになり、この年のコンサートツアーを終えるとバンドは長期休暇に入った。

1974年に入り、バンドは『狂気』に続くアルバムのレコーディングを開始する。当初は、楽器を一切使わずにワイングラスや輪ゴムなどの日用品を使って演奏する組曲「Household Objects」の制作を試みたが、結局は断念した。

その後、同年6月にフランス、11月にイギリスでコンサートツアーを行った。新曲「Shine on You Crazy Diamond」「You've Gotta be Crazy」「Raving and Drooling」などが披露され、次のアルバムではこの3曲を収録することが決まりかけていたが、これらの新曲を披露したコンサートを収録した海賊盤『British Winter tour』なるアルバムが大いに売れてしまったため、「You've Gotta be Crazy」と「Raving and Drooling」の収録は見送られた。この2曲は、のちのアルバム『アニマルズ』にタイトルが変更されたうえで収録されている。

新たなアルバム作りは困難を極めた。『狂気』の成功で注目を集めたことによる重圧、『狂気』でやりたいことをやり尽くしたという満足感、そして、メンバーの個人的問題などが原因であった。ウォーターズとメイスンがそれぞれ離婚の危機を抱えていたのである。

画像外部リンク
en:File:Pink Floyd-Animals-Frontal.jpg
『アニマルズ』のディスクジャケット
2011年に再現された、『アニマルズ』のアートワーク巨大な煙突が目立つ廃発電所の煉瓦ゴシック建築と上空に浮かぶ豚の形のゴム風船が印象的である。


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