ピンク・フロイド
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ピンク・フロイドは、サイケデリック・ロック全盛の時代にクラブUFO(UFOクラブ)といったアンダーグラウンド・シーンで精力的にライヴ活動を展開する[注 5]。バンドは徐々に認知度と評価を高め、複数のレコード会社による争奪戦の末にEMIと契約を結んだ。

1967年、シド・バレット作のシングル「アーノルド・レーン(Arnold Layne)」でデビューを果たす。歌詞が下着泥棒を示唆するものであったため、ラジオ・ロンドンでは放送禁止に指定されたが、それでも全英20位のヒットとなった。続くセカンド・シングル「シー・エミリー・プレイ(See Emily Play)」(邦題:エミリーはプレイガール)は全英6位のヒットを記録した。

同年、ファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き(The Piper at the Gates of Dawn)』をリリースする。このアルバムをレコーディングしていた時、ちょうど隣のスタジオでビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作しており、メンバーはビートルズのレコーディングの様子を見学した。

当初、ピンク・フロイドはバレットのワンマン・バンドであった。しかし、過度のLSD摂取によってバレットの奇行が目立ち始め、バンド活動に支障をきたし始める。翌1968年には、彼の役割を補う形でデヴィッド・ギルモアが加入し、一時的にフロイドは5人編成となる。バレットはライヴには参加せず、曲作りに専念してもらおうとの目論見であったが、それすら不可能となるほどバレットは重症であった。同1968年の「夢に消えるジュリア(Julia Dream)」[39]はシングルB面に収められたが、人気の一曲である。同曲はロジャー・ウォーターズの作曲である。

バレットは結局、同1968年3月にバンドを脱退した。これによりフロイドは、ウォーターズ、ライト、メイスン、ギルモアの4人で再スタートすることになった。バレット脱退後、当初はシングル向けの楽曲も数曲作ったが、バンドは方針を転換してサイケデリック・ロックから脱却し、より独創性の高い音楽を目指すようになる。また、シングルもイギリスでは1968年発表の「It Would be So Nice」(ライト作)以降はリリースしなくなった。彼らはそれまでの直感的な即興音楽ではなく、建築学校出身の強みを生かした楽曲構成力に磨きをかけていった。こうして発表された同1968年のセカンド・アルバム『神秘(A Saucerful of Secrets)』は、約12分のインストゥルメンタル曲であるタイトル曲「神秘(A Saucerful of Secrets)」を収録している。

この頃バンドはテレビ映画などのサウンドトラックも担当していた。スタンリー・キューブリックがこの年(1968年)に発表した映画『2001年宇宙の旅』では、フロイドに音楽制作の依頼が来ていたという話が伝わっている。明くる1969年に発表された『モア(More)』は、バルベ・シュローダー監督の映画『モア』(主演:ミムジー・ファーマー)のサウンドトラックとして制作された。映画はドラッグに溺れるヒッピーの男女の物語であった。

同1969年発表のアルバム『ウマグマ(Ummagumma)』は、ライブとスタジオ・レコーディングで構成された2枚組であった。当時バンドは精力的にライブ活動を繰り広げており、そのライブ・パフォーマンスの一端が窺える。スタジオアルバムはバンドメンバー4人のソロ作品である。当時バンドはライブで『The Man/The Journey』なる組曲を演奏しているが、この組曲は既に発表されている曲を組み合わせたものであり、『ウマグマ』収録のスタジオ・テイクの一部も組み込まれている。この年には、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『砂丘 (映画)』の音楽も手がけている。


中期:プログレ時代:『狂気』『ザ・ウォール』の成功(1970年 - 1980年)1970年のライブ

1970年には『原子心母(Atom Heart Mother)』を発表。本作は全英1位を記録し、批評家筋からも絶賛されるなど音楽的・商業的に成功を収める。タイトル曲は収録に前衛音楽家のロン・ギーシンを招き、オーケストラ(正確にはブラスアンサンブルにチェロを加えた編成)を全面的に取り入れた23分にわたるロック・シンフォニーである。本作以降、フロイドはプログレッシヴ・ロックを代表するバンドとして認知されるようになる。

続く1971年発表の『おせっかい(Meddle)』は、セールス面では前作『原子心母』に及ばなかったが、バンドが音楽的に大きく飛躍するきっかけとなった作品である。23分を超える大作「エコーズ(Echoes)」が収録されている。バンドはこの「エコーズ」の誕生をもって「初めてバンドがクリエイティビティを獲得した」と認識している。同年8月には初来日し、音楽フェスティバル「箱根アフロディーテ」などでコンサートを披露した。司会は糸居五郎亀淵昭信であった。

同1971年11月に『おせっかい』ツアーが終了すると、バンドは次のアルバム制作に取り掛かった。制作に先立ち、ウォーターズは新作のアルバムのテーマとして「人間の内面に潜む狂気」を描くことを提案する。バンドはこのアイデアを元に組曲を作り上げ、それは翌1972年1月のコンサートから「A Piece for Assorted Lunatics」というタイトルで披露された。これがのちに大ヒットアルバムとなる『狂気(The Dark Side of The Moon)』である。バンドは同年同月からイギリスを皮切りにコンサート・ツアーを開始、同年3月には2回目の来日を果たしている。こちらでも『狂気』の組曲が披露された。

バンドは『狂気』制作と並行して、同年2月下旬から再びバーベッド・シュローダー監督の映画『La Vallee』のサウンドトラックも担当。フランスに赴き、約2週間で『雲の影(Obscured by Clouds)』を完成させた。こちらは全米46位を記録し、ウォーターズ作の「フリー・フォア(Free Four)」がシングル・カットされている。アルバム『狂気』ツアー (1973年5月)

明くる1973年3月、コンセプト・アルバム狂気(The Dark Side of the Moon)』を発表。


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