ピンク・フロイド
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その後、バンド名を「メガデス (The Meggadeaths [27], The Megadeaths [28]) [注 2]」「アブダブス(The Abdabs)[25][29]」「スクリーミング・アブダブス(The Screaming Abdabs)[25][注 3]」「アーキテクチュラル・アブダブス(The Architectural Abdabs)[30][29]」「レナーズ・ロジャース(Leonard's Lodgers)[25]」「スペクトラム・ファイブ(The Spectrum Five)[25]」などと次々に変えながら活動を続け[25][注 4]、一旦「ティー・セット(The Tea Set)[31][29]」もしくは「Tセット(The T-Set)[32]」に落ち着くが、行き詰まりから活動を休止した。同年後半、ウォーターズ、ライト、メイスンの3人は旧友のシド・バレットとギタリストのボブ・クロース(Bob Klose)を誘い[33]、バンド名を「ピンク・フロイド・サウンド(Pink Floyd Sound)」に改めて再出発を図る。これは、バレットが好んだ2人のピードモント・ブルース(英語版)・ミュージシャンの名前にちなんだものであった[34][35][36]。その2人というのは共にアメリカ人のピンク・アンダーソン(ピンクニー・“ピンク”・アンダーソン)とフロイド・カウンシルで、Pinkney "Pink" Anderson からは"Pinkney"をもじったミドルネーム"Pinkを[37][38]、Floyd Council からはギブンネーム(en)の"Floydを[36]拝借したわけである[34][35]

当初はブルースのほかにローリング・ストーンズザ・フーの曲をコピーして演奏していたが、やがて即興演奏リキッドライトを導入し、独自の道を歩み出す。純粋なブルースを志向していたボブ・クロースは方向性の違いから同1965年中にバンドを脱退し[33]、代わってバレットがリード・ギターを担当することになる。この頃からバレットは精力的に曲作りを始め、オリジナル曲の演奏が次第に増えていった。こうしてバンドはバレットの感性をグループの軸に据えるようになる。

なお、ボブが脱退した際に[26]バンド名を「ピンク・フロイド・サウンド」から「ピンク・フロイド(Pink Floyd)」へと改名した。バンド名を短くしたのは当時のマネージャーの進言によるものであった。


前期:サイケ/実験音楽時代(1967年-1969年)

ピンク・フロイドは、サイケデリック・ロック全盛の時代にクラブUFO(UFOクラブ)といったアンダーグラウンド・シーンで精力的にライヴ活動を展開する[注 5]。バンドは徐々に認知度と評価を高め、複数のレコード会社による争奪戦の末にEMIと契約を結んだ。

1967年、シド・バレット作のシングル「アーノルド・レーン(Arnold Layne)」でデビューを果たす。歌詞が下着泥棒を示唆するものであったため、ラジオ・ロンドンでは放送禁止に指定されたが、それでも全英20位のヒットとなった。続くセカンド・シングル「シー・エミリー・プレイ(See Emily Play)」(邦題:エミリーはプレイガール)は全英6位のヒットを記録した。

同年、ファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き(The Piper at the Gates of Dawn)』をリリースする。このアルバムをレコーディングしていた時、ちょうど隣のスタジオでビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作しており、メンバーはビートルズのレコーディングの様子を見学した。


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