ピョートルは当初、国政を母ナタリヤらナルイシキン一族に委ねて、相変わらず外国人村を訪ねたり、軍事演習に熱中し、また仲間と馬鹿騒ぎをしながら過ごしている[15]。ナルイシキン一族の政権はアレクセイやソフィアの政策に逆行する保守的な統治を行っていたが[16]、1694年に母が死去するとピョートルは親政を開始した。また名ばかりの共同統治者イヴァン5世の死去(1696年)で単独統治に入る。 この時期のロシアの主な港は年間数か月は氷に閉ざされる白海のアルハンゲリスクだけであり[17]、黒海周辺はオスマン帝国の勢力下にあり、バルト海への出口はスウェーデンが押さえていた。
アゾフ遠征と海軍創設
このため、ピョートルは海軍創設に着手し、ドン川畔のヴォロネジに造船所を建設してわずか5か月でガレー船と閉塞船27隻、そして平底川船約1300隻からなる艦隊を造らせた[19]。これがロシア海軍の興りである[20]。1696年に再度行われたアゾフ遠征はピョートル自らがガレー船に乗船して戦った[20]。ロシア軍による水陸共同作戦によりアゾフは陥落し、ピョートルは海への出口を手に入れた。しかし、進出地点はまだ黒海北東の内海のアゾフ海に止まり、更なる進出にはオスマン帝国に再び勝利する必要性があったが、ロシア単独では不可能なためピョートルは軍事から外交政策に転換した[21]。
大使節団オランダで船大工とともに働くピョートル詳細は「ピョートル1世の大使節団(英語版)」を参照
1697年3月から翌1698年8月まで、ピョートルは約250名の使節団を結成しヨーロッパに派遣、自らもピョートル・ミハイロフ (Пётр Михайлов) という偽名を使い使節団の一員となった。この使節は軍事・科学の専門技術といったヨーロッパ文明の吸収を目的としていたが、対オスマン軍事同盟への参加を各国に打診する外交使節をも兼ねていた[22]。また使節の一員に身をやつしたのは、煩瑣な儀礼に縛られず自由に行動するためと、公的にはモスクワを離れていないと内外に示すためだった[23]。
主にオランダのアムステルダム(4か月半)とイングランド王国のロンドン(3か月)に長期滞在し、プロイセンのケーニヒスベルク、ザクセンのドレスデン、オーストリアのウィーンにも立ち寄り、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世とザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト2世、神聖ローマ皇帝レオポルト1世と会談を行った。旅行中にスウェーデン領リガの要塞を調べてモスクワに情報を送ったり、ポーランド王選挙ではロシア軍をポーランド国境へ進めて圧力をかけ、フランスが推すコンティ公フランソワ・ルイを押しのけアウグスト2世の当選に尽力したりしている[24]。
アムステルダムでは造船技術の習得に専心し、オランダ東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働いた[25]。病院や博物館、植物園を視察、歯科医療や人体解剖を見学した。中でも歯科医療には強い興味を示し、初歩的な抜歯術の手ほどきを受けて抜歯器具を買い込み、帰国後は廷臣たちの虫歯を麻酔なしで抜くのを趣味にした[26]。ロンドンでも王立海軍造船所に通い、天文台や王立協会、大学、武器庫などを訪れた。また貴族院の本会議やイギリス海軍の艦隊演習も見学した。
ピョートルは沢山の物産品や武器を買い集め、1000人の軍事や技術の専門家を雇い入れて、その知識をロシア人に教え込ませた[27]。しかし外交上の目的だった軍事同盟の呼びかけは、当時の西欧の関心がオスマン帝国よりも、近々予想されるスペイン継承戦争に集中していたため失敗した[28]。列強は1699年にオスマン帝国とカルロヴィッツ条約を締結して大トルコ戦争を終結、ロシアも1700年にコンスタンティノープル条約を結びアゾフ領有を認められた。
1698年7月にモスクワよりストレリツィの再度の蜂起(英語版)を知らされたためオーストリアから急遽帰国することになり、途中立ち寄ったポーランドでアウグスト2世と会談を行い、外交政策を対オスマン帝国から対スウェーデンに変更、黒海からバルト海へ出口を求めることにした。8月にロシアへ辿り着いたピョートルは銃兵隊を解体して国内を固め、ポーランド及びデンマーク=ノルウェーと交渉を重ね、対スウェーデン戦争に向けて準備を整えていった[29]。
大北方戦争詳細は「大北方戦争」を参照ポルタヴァの戦い
1699年、ピョートルはポーランド王アウグスト2世、デンマーク=ノルウェー王フレデリク4世と反スウェーデン同盟(北方同盟)を結び、バルト海への出口を求めた。1700年に大北方戦争が始まると、コンスタンティノープル条約の締結で露土戦争の終結を確認した後にスウェーデンと交戦状態に入るが、ナルヴァの戦いでカール12世の率いる少数精鋭の敵軍に惨敗した。しかし軍備増強に努め、ポーランドとの戦争に忙殺されるスウェーデン軍の隙をつき、1706年頃にはリヴォニア地方にまで進軍した。
1708年にカール12世がロシア領に侵攻し、ウクライナ・コサックの首長マゼーパと連合したが、1709年6月27日にポルタヴァの戦いでピョートルは冬将軍と焦土作戦でスウェーデン軍を弱体化させ大敗させた。カール12世はトルコに逃げたため故国に戻れず、ピョートルはこの機に乗じて親露派のアウグスト2世をポーランド王位に復帰させ、カレリアとリヴォニアを征服した。一方イスタンブールにいるカール12世はアフメト3世を説き伏せ、1711年トルコをロシアとの交戦に踏み切らせた。ピョートル率いるロシア軍はプルト川河畔でオスマン軍に包囲され敗北(プルート川の戦い、1711年7月18日 - 7月21日)、カール12世の帰還、アゾフなど1696年にトルコから奪った領土の返還を承認させられた(プルト条約)。