ピョートル・チャイコフスキー
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ポズナンスキーは緻密な検証を行った末、結局陰謀死説なるものが「21世紀の今となっては、歴史のエピソードに過ぎない」ことであり「まったく根拠のない作り話」であると結論づけている[注釈 2]
作品評価の変遷

チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は、現在でこそ冒頭の部分などだれでも聞いたことのあるほどよく知られているが、作曲された際にはニコライ・ルビンシテインによって「演奏不可能」とされ、初演さえおぼつかない状態にあった(しかし、のちにルビンシテインはこの曲をレパートリーとするに至った)[28]

ピアノ協奏曲同様、現在では非常に有名なヴァイオリン協奏曲の場合も、名ヴァイオリニストのレオポルト・アウアーに打診するも、「演奏不可能」と初演を拒絶されてしまった。そのためこの曲はアドルフ・ブロツキーのヴァイオリン、ハンス・リヒター指揮によって初演された。しかし聴衆の反応は芳しくなく、評論家のエドゥアルト・ハンスリックからは「悪臭を放つ音楽」と酷評された。しかしこの作品の真価を確信していたブロツキーは各地でヴァイオリン協奏曲を演奏し次第に世評を得るようになったという。その後、アウアーもこの曲を評価し、自身のレパートリーにも取り上げるようになった。

最後の交響曲である交響曲第6番『悲愴』も、初演時の聴衆の反応は好ましいものでなかったとされる。不評の理由は作品の持つ虚無感と不吉な終結によるものと思われる。しかし、世評を気にしがちなチャイコフスキーも『悲愴』だけは初演の不評にもかかわらず「この曲は、私のすべての作品の中で最高の出来栄えだ」と周囲に語るほどの自信作だったようだ。

チャイコフスキーのバレエ作品としてのみならずバレエの演目の代表として知られる『白鳥の湖』も1877年ボリショイ劇場での初演は失敗に終わり、たいへん意気消沈した彼は再演を拒否するほどであった。しかし不評の原因は振り付けや演奏などの悪さによるものであり、死後2年後にマリウス・プティパらが遺稿からこの作品を発掘し、振り付けなどを変えて蘇演した。この公演はたいへんな人気を博し、以降もたくさんの振付師が、独自の作品解釈でこの作品の振り付けと演出に挑戦している。現代では『白鳥の湖』はもっとも有名なバレエの演目のひとつであると同時に、多くの舞踏家振付師の関心をひく作品となっている。

なお数は多くないが、正教会聖歌も作曲している(『聖金口イオアン聖体礼儀』など)。これはロシア正教会の事前の許可を得ずに作曲されたものであったため、一時は教会を巻き込んだ訴訟沙汰にもなった。現在ではロシア正教会・ウクライナ正教会日本正教会などで歌われている。

また、のちのロシアの著名な作曲家による批評であるが、ストラヴィンスキープロコフィエフは作曲家としてのチャイコフスキーを高く評価する一方、ショスタコーヴィチはまったく評価しなかったとの証言がある[29]

なお、宗教およびロシア帝国を否定した旧ソ連時代には、出版や演奏においてチャイコフスキーの宗教的および愛国的な作品のタイトルが改竄されたり(『戴冠式祝典行進曲』→『祝典行進曲』など)、ロシア帝国国歌の引用が削除されたりする(『序曲「1812年」』。グリンカ作曲の歌劇『イワン・スサーニン(皇帝に捧げし命)』の終曲に差換え)などした。これらはソ連崩壊後に原典版に戻された。
代表的な作品作品についてはチャイコフスキーの楽曲一覧をご覧ください。

弦楽四重奏曲第1番 ニ長調 作品11

幻想序曲「ロメオとジュリエット」

バレエ音楽「白鳥の湖」 作品20

ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23

スラヴ行進曲 作品31

ロココの主題による変奏曲 イ長調 作品33

ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35

交響曲第4番 ヘ短調 作品36

四季」- 12の性格的小品 作品37a

「なつかしい土地の思い出」 作品42

弦楽セレナーデ ハ長調 作品48

大序曲「1812年」 作品49

ピアノ三重奏曲「ある偉大な芸術家の思い出のために」 作品50

マンフレッド交響曲 作品58

交響曲第5番 ホ短調 作品64

バレエ音楽「眠れる森の美女」 作品66


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