1893年10月28日(ユリウス暦10月16日)、交響曲第6番『悲愴』(作品74)が作曲者自身による指揮で初演(作曲への着手は2月4日、完成は3月14日)。それから9日後の11月6日(ユリウス暦10月25日)に急死。死因には諸説があるが、後述するように現在ではコレラおよび肺水腫によるものとされている。ロシア皇帝アレクサンドル3世によって国葬が決定され、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂にて国葬が執り行われた。遺体はサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に10月29日に埋葬された[26]。
死因について詳細は「チャイコフスキーの死」を参照チャイコフスキーが晩年に住んで作曲をしたモスクワ近郊のクリンの邸宅。現在は博物館となっている
急死の原因はおもにコレラによるとする説(発病の原因として、観劇後の会食時に文学カフェで周りが止めるのを聞かずに生水を飲んだことが理由とされる)が死の直後からの定説である。なお直接的な死因は、死の前夜10時ごろに併発した肺水腫であることが分かっている[27]。
1978年にソ連の音楽学者アレクサンドラ・オルロヴァは、チャイコフスキーがある貴族の甥と男色関係を結んだため、この貴族が皇帝アレクサンドル3世に訴えて秘密法廷なるもの(チャイコフスキーの法律学校時代の同窓生の、高名な裁判官、弁護士、法律学者等が列席した)が開かれ、そこでチャイコフスキーの名誉を慮って砒素服毒による自殺が決定・強要されたという説を唱えた。実際チャイコフスキーの死の直後にもこのような説を唱える者がいたという。
しかしこの説は、研究家であるアレクサンドル・ポズナンスキーの1988年の論文を皮切りに、チャイコフスキーを診た医者のカルテなど、残されている資料を調査した結果、やはりコレラおよびその余病である尿毒症、肺気腫による心臓衰弱が死因であるという反論が出され(たとえばオルロヴァは埋葬式時に安置されたチャイコフスキーの遺体にキスをした者がいた[注釈 1]という証言を持ち出して「消毒をしなければコレラ患者の遺体にありえないことだ」と主張したが、チャイコフスキーの遺体は安置される前に消毒されていた記録が残っている)、現在ではやはりコレラによる病死だったという説が定説となった。なおチャイコフスキー自身、発病当日にはオデッサ歌劇場の指揮を引き受ける手紙も書いている。
ポズナンスキーは緻密な検証を行った末、結局陰謀死説なるものが「21世紀の今となっては、歴史のエピソードに過ぎない」ことであり「まったく根拠のない作り話」であると結論づけている[注釈 2]。 チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は、現在でこそ冒頭の部分などだれでも聞いたことのあるほどよく知られているが、作曲された際にはニコライ・ルビンシテインによって「演奏不可能」とされ、初演さえおぼつかない状態にあった(しかし、のちにルビンシテインはこの曲をレパートリーとするに至った)[28]。 ピアノ協奏曲同様、現在では非常に有名なヴァイオリン協奏曲の場合も、名ヴァイオリニストのレオポルト・アウアーに打診するも、「演奏不可能」と初演を拒絶されてしまった。そのためこの曲はアドルフ・ブロツキーのヴァイオリン、ハンス・リヒター指揮によって初演された。しかし聴衆の反応は芳しくなく、評論家のエドゥアルト・ハンスリックからは「悪臭を放つ音楽」と酷評された。
作品評価の変遷